| エレオノーラが大木と思った木は、結局は普通の木なのであった。高いと思った空も、本当はいつもと変わらないのだろう。
 すべてはエレオノーラが子どもに戻ったために、大きく、そして高く感じられただけであった。
 ――例えそれが夢だとしても、周囲は大きく、高く、また懐かしいのであった。
 
 
 
 “父”に手を引かれて、小さいエレオノーラは夢の中のラボレムスの山を行く――今の季節は何だろうか。木々は木漏れ日を作り出しているが、それは明るくもなくかと言って暗くもなく、中途半端なものであった。風もまた温いような、冷たいような判然としないものであった。
 「父さん、今の季節はなんなの?」
 幼くなったエレオノーラはふと、“父”に聞いた。だが“父”はエレオノーラをひょい、と見下ろしただけで答えなかった。
 その時、エレオノーラはまた気づいた。
 ――やっぱり、父さんの顔がよく見えない……。
 “父”の顔のうち、彼女の視覚でしっかりと認識できるのは口元辺りまでであった。その他は逆光のせいなのか、よく見えないままなのである。
 二人はわずかに土を踏む音をさせながら、山の中を無言で進んでいった。
 はじめは懐かしげに辺りを見回していたエレオノーラであったが、しばらくすると辺りの様子が何か違う雰囲気になってきたようで、首を傾げた。
 森は次第に暗くなっていく。だが、先ほどから森の密度はさほど変わっていない。木が増えたわけでもなく、下草が増えたわけでもなく、頭上を覆う枝葉の数もそのままだ。
 しかし、森の中で暗さだけがその存在を増していくのだ。
 それに。
 「父さん、家はこっちじゃないんじゃない?」
 足元の道が段々と消えていく。通りなれた道は、石葺きされていないとはいえ獣道よりは広く、また草もなかった。だが、その道が段々と消えていくのだ。しかし、先ほど彼女が確認したように下草が増えて埋もれていくわけではない。本当に消えていくのだ。
 ――夢だからかしら……。
 ぼんやりとエレオノーラの理性は道の消える理由を考えた。
 彼女は父の言葉を期待したが、またしても応えはない。
 「父さん、どこに行くの?」
 そこで“父”はまた、彼女には見えない顔で見下ろした。
 「家に帰るって言ったじゃないか。ついてくればいいんだよ」
 それは冷たく、抑揚のない声だった。エレオノーラはぞくりとして、思わず“父”と繋ぐ手を離そうとした。だが、それに気づいたのか、“父”はぐっと彼女の手を握りこんだ。
 「おまえはわたしについてくればいい」
 顔の見えない声がそう言った。エレオノーラは困惑したようにそちらを見上げる。
 ――父さんの声はこんなに冷たかったかしら。
 ――父さんはこんなに威圧的だったかしら。
 違和感が頭をもたげてくる。並んでいたエレオノーラと“父”の歩調がずれていく。
 エレオノーラはあたりの暗さと同調するように、自分の気分が沈んでいくのを感じていた。“父”が次第に先行しはじめ、やがて彼女の手を引っ張る形となった。
 ――父さんはどこに行くんだろう。
 ――もうここから先へは行きたくない。
 漠然とした不安を感じて、エレオノーラは俯いて立ち止まりかけた。“父”の手に引っ張られて、一瞬だけつんのめる。
 「エレオノーラ!」
 途端に怒気を孕んだ声が彼女に降り注いだ。エレオノーラは身を震わせて、恐る恐るそちらを見上げた。
 こわい。だが、“父”の顔はやはり、見えなかった。
 そして、ふと見ればその向こう――父の向こうにも森の姿が見えなかった。
 エレオノーラは一瞬、きょとんとした。
 立ち止まり、こちらを向いてエレオノーラの手を引っ張る“父”の背中の向こうには、ただぽっかりと闇が口をあけているだけであった。
 木々が、大地が、空が、全てが“父”を境に消えている。
 「森がないわ!」
 それは不自然な光景だった。思わずエレオノーラは“父”の手に捕らえられたまま後ずさった。“父”はそんな娘の手をぐいっと引き戻す。
 「何を言ってるんだ?エレオノーラ、さぁ進むんだ」
 「いやよ!」
 力いっぱい引っ張る“父”にエレオノーラは抵抗する。
 道が消えた先で、森も消え、そこには闇があるだけだった。ただぽっかりと口を開けて、エレオノーラが自らの中に進んでくるのを待っているかのようだった。
 あそこに入れば、一環の終わり。
 安らかな夜の闇とは違う、不気味な暗さ。
 動物の寝息の聞こえる夜とは違う、不気味な静けさ。
 その不気味な黒さが、彼女を待ち受けているのだ。
 そこへ“父”は娘を引きずっていこうとしている。エレオノーラは足を踏ん張り、それに逆らった。
 「父さん、ここから先は危ないわ!そっちに行ったらだめよ!」
 逆らうだけではなく、彼女は同時に父を闇から遠ざけようともした。だが“父”は、まるで深く根を下ろした岩のようにびくとも動かない。
 「エレオノーラ、我侭を言うんじゃない」
 「でも!」
 「ほら、見ろ。この先で母さんも待っている」
 あくまでも抵抗するエレオノーラに“父”は空いている手で闇の方を指し示した。エレオノーラは用心しながらそちらを見た。
 するとどうだろう。
 闇からぼんやりと何かの輪郭が浮かび上がり始める。やがてそれは、やはり懐かしい優しい人のかたちになった。
 ――母さん……。
 それは、彼女が父より早くに亡くした母だった。
 「ほぉら、母さんもいるだろう?さぁ、エレオノーラ、行こう」
 顔の見えない“父”がなだめすかすかのような声を出した。エレオノーラは呆然と“母”を見つめている。くい、と小さな手が引っ張られ反射的に彼女は足を一歩踏み出した。
 “父”が嗤う気配。
 「エレオノーラ!」
 そこへ、歌うように警告する第三の声が轟いた。それは“父”の背よりも高い場所で、だが闇側ではなく森側から響いた。エレオノーラははっとして父に片手を握られたまま振り返った。
 見上げれば、美しい大鷲が木の枝に止まり、こちらを見下ろしていた。
 「エレオノーラ!」
 大鷲は翼を広げると、嘴を開いて言葉を紡いだ。それは彼女の名前だった。
 「エレオノーラ!小さなノーラよ!目を開いてよく見なさい!耳をすませてよく聞きなさい!
 それは本当にお前の父と母なのか?」
 大鷲は続けてそう娘に警告した。エレオノーラはそれを見上げる。その隣で“父”が動いた。
 「うるさい害鳥だ」
 そう言うと、“父”はどこから拾い上げたのか小石を思い切り大鷲に向かって投げつけた。
 エレオノーラが声を出す間もなかった。しかし大鷲は優雅に飛び上がり、別な枝に移りまた娘に呼びかけた。
 「エレオノーラよ!もはや小さいとはいえない、ノーラと呼ばれた娘よ!
 目を開いてよく見なさい!耳をすませてよく聞きなさい!
 それは本当にお前の父なのか?」
 言われて、エレオノーラは“父”を見上げた。
 父は鳥に石を投げるような人物であったか?
 娘に冷たい声を投げかける人であったか?
 先ほどから拭えない違和感が彼女の中で大きくなった。
 「エレオノーラ、エレオノーラ。
 その男の顔を、よく見なさい。その顔は見えないのではない、お前に見せないだけなのだ。
 かつてのお前たちの主君である金の獅子王だけに、金の髪と左は蒼、右は緑の瞳が許されたように、そこにはお前とお前の一族にだけ許された、紫がなければならない。
 しかしその男がもし、お前とお前に連なる一族の者でないのならば、これから生まれ来る銀の獅子王以外には、銀の髪と左は蒼、右は緑の瞳が許されぬように、そこには紫の瞳はないだろう!」
 大鷲はまるで娘を元気付け、勇気付けるようにそう歌った。エレオノーラは恐る恐る“父”の方へと顔を動かした。
 やはり、“父”の顔は見えない。闇に融けているように。
 “父”は見える口元だけでにっこりとした。
 「エレオノーラ、エレオノーラ。
 あれは鳥のさえずりにすぎない。脳の足りない哀れな動物の、妄想の産物だ。
 耳を貸してはいけないよ、お前の耳が爛れてしまう。一瞥してもいけないよ、お前の目がつぶれてしまう。
 さぁ母さんのところへ行こう。また皆で仲良く平穏に、ただ楽しく暮らすのだ」
 エレオノーラは頭の芯がくらくらするのを感じていた。
 ――偉大な姿の大鷲は、それはお前の父ではないという。
 ――“父”は、あの大鷲は哀れな害鳥だという。
 エレオノーラの耳の向こうで、朗々と歌う大鷲に“父”が声を添える。
 それは耳を塞ぎたくなるような不協和音となって娘の頭を一杯にした。
 「やめて!」
 娘はそこで“父”の手を放し、耳を塞いで地面にうずくまった。
 それを見て、大鷲はさっと美しい翼を広げた。
 “父”はまた嗤った。そして“父”は娘の傍らに膝をつこうとする。
 だがそれよりも早く、大鷲は枝を蹴っていた。
 “父”が娘の肩に手を置こうとすると、そこへ鋭い鍵爪を伸ばして襲い掛かった。
 ぎゃっ!と声を上げて男は後ずさった。
 「エレオノーラ!エレオノーラ!立ち上がりなさい!目を開きなさい!耳をすませなさい!」
 大鷲は歌いながら、そして娘を守るように旋回する。
 しかしエレオノーラは震えてうずくまったままである。
 大鷲はそんな彼女を中心にした円を段々と小さくしていった。そして、もう体が地面に着く、という高度になったとき大鷲がふいに眩い光に包まれた。
 爪を受けて後ずさった男は、その光から腕で顔を庇い、うめきながらさらに後退した。
 光が大鷲よりも大きくなり、その光が何倍にも大きくなる。
 やがて、鷲の爪よりも大きく重さもあるものが静かに地面に降り立つ音がした。
 そして大鷲だったものは、そっとエレオノーラの正面で膝を折った。エレオノーラは俯いて目を瞑っているので気づかない。
 「エレオノーラ」
 大鷲だったものは、そっとそう呼びかけて彼女の耳を塞ぐ小さな二つの手に自らの手を添えた。
 エレオノーラは反射的に顔を上げた。
 「エレオノーラ」
 彼女の手に自らの手を沿え、大らかな笑みを浮かべる人物――それはまごうことなき、エンキだった。
 彼女が助けた、彼女の道連れの、あの記憶を失った不思議な男だった。
 「エレオノーラ、アレの顔がどうしても一人で見れないというなら、俺も一緒に見よう。
 そうすれば、怖くないだろ?」
 小さなエレオノーラは、目に涙を浮かべてじっと“エンキ”を見つめた。
 小さな手を包むのは、若いと思われる彼にはどこか不釣合いな、苦労を刻んだ暖かな手だった。
 「お父さんが亡くなったのは、かなしい。お母さんがいないのは、さびしい。
 それでいいんだ。だけど、悲しさや寂しさ、懐かしさのために目を曇らせてはだめだ」
 エレオノーラは耳を塞いでいた手を下ろした。こぼれかけた涙を拭う。
 「……うん」
 かすかな声で言うと、“エンキ”はあのおおらかな笑みを広げた。
 「それじゃあ、まず立とう」
 そう言うと、エンキはエレオノーラの肘に手を添えて彼女をそっと立たせた。
 立ち上がった小さなエレオノーラは、膝をついたエンキより少し小さい。
 ――私はこんなに小さかったかしら。
 と、エレオノーラはぼんやりと思った。
 “エンキ”は勇気付けるように、エレオノーラの小さな手を握った。
 「目を開いて、耳をすませて」
 “エンキ”はそれだけ言うと、そっと彼女を振り返らせた。小さな手を離れた大きな手は、今度は肩に優しく乗せられた。
 「よく見るんだ」
 “エンキ”はエレオノーラにそっとささやく。エレオノーラはじっと、暗闇の中に立つ“父と母”を見た。すると、“母”の輪郭がぼんやりしていることに気づいた。そして、彼女は闇に溶けるように消えてしまった。蜃気楼だったのだ、とエレオノーラは思う。
 そして、“父”を見やる――“父”は先ほどのまま顔を腕で隠していた。肩で息をしている。
 「“父さん”、顔を見せて」
 娘はそっとそう言った。反応がない。その代わりに男はうめきながら後ずさった。
 エレオノーラの頭の後ろで、“エンキ”が何事かを呟いた。
 すると言葉は投げられたかのように力を持ち、男を打った。男がよろけ、腕が顔の前から外れる――エレオノーラは目を凝らした。
 ――男の造形は、まさしく、エレオノーラの父“ルーファウス”のものであった。
 だが。
 一点だけ、異なる点があった。
 エレオノーラはそれをしっかりと見つけた。
 「エレオノーラ、あれは君の父上か?」
 エンキが問う――エレオノーラは首を振った。
 「父さんじゃない……」
 一点だけ違うところ。それだけ違えば、エレオノーラの“父”ではないという証明になるのだ。
 男は、邪王の一族のしるしたる紫の瞳をもっていなかった。
 男が獣のようなうめき声をさせて、顔に醜い表情を浮かべてエレオノーラを威嚇した。
 「父さんなんかじゃない!」
 エレオノーラは声高く、そう言い放った。その後ろで、エンキとなった偉大な鷲がすっと立ち上がった。
 「悪しき夢は去るのだ!」
 そのとき、すっと自分の視点が高くなっていくのをエレオノーラは感じた。
 見れば、手指がすらりとしていく。子ども特有の健康的なふっくらとした感が消えていく。
 かわりに見えるようになったのは、見慣れた、少し疲れたようにも見える細すぎる彼女自身の手だった。
 振り返れば、いつもの位置にエンキの顔がある。“エンキ”はあのおおらかな笑みを見せた。
 ――悪しき夢は去ったのだ。
 エレオノーラは、闇の中の男に向き直る。
 「あなたは、父さんなんかじゃないわ!」
 「娘は目覚めた!去るがよい、悪しき者よ!」
 二人がそう言うと男はエレオノーラの父の姿を失い、小さな黒い塊となって断末魔を上げて闇に四散した。
 エレオノーラは目をそらさずにそれを見ていた。
 残骸が闇に融け、消える――すると、“エンキ”がエレオノーラの耳にそっとささやいた。
 「待ち人がいる――戻ろう、エレオノーラ」
 エレオノーラはその言葉に、体ごとそちらに向き直った。
 「待ち人?」
 「そう、ここは言うなれば夢の中のような場所だから。ここの“外”に待ち人がいるんだ」
 エレオノーラは“エンキ”をじっと見つめた。
 「……あなたも夢の中のひとなのね?」
 偉大なる大鷲はおおらかに笑った。
 「さぁ、戻ろう。“邪王の娘”よ」
 エンキの姿をした偉大なる大鷲がすっと両手を彼女に差し出した。エレオノーラがその手にそっと手を重ねると、一陣、強い風が吹いた。
 そして辺りが光に満たされる。
 エレオノーラは思わず目を瞑った。
 そしてふわりと体が風に包まれる感覚と、浮遊感。
 その感覚に驚いて目を開く――すると周囲からラボレムスの森に似た場所は消えていた。
 エンキの姿をした大鷲の姿もない――ただエレオノーラを光が取り囲んでいた。
 そっと彼女は辺りを見回した。するとわずか下方に散乱する家具のなか、見つけ出したソファに腰掛け本に目を落としているタイベリウス・クラウディースが目に入った。
 「おじさま!」
 呼びかけると、クラウディースは目を上げて彼女を見つけ、にっこりとした。
 そして優雅に組んでいた足を戻し、立ち上がる。本をソファの上に置くと、彼はゆっくり彼女の傍に歩み寄ってきた。そして彼女を見上げる――そう、エレオノーラは中空に浮いていたのだ。
 だが彼女は慌てなかった。ゆっくりと静かに、そして誰かが支えてくれているかのように優しく、体が下降していっているからだ。最後にはクラウディースが手を伸ばして下ろしてくれた。
 「お帰り、エレオノーラ」
 「“エンキ”が助けてくれたんです」
 エレオノーラが何よりも先にそう言うと、クラウディースは笑った。
 「そうか、アレは君にはエンキ君に見えたか」
 そこへ、フッと空気を動かして何かがエレオノーラの後ろから現れた。それは小さな太陽のような、光の球だった。
 「ご苦労」
 クラウディースは一言そう言って、光の球を自分の掌の上へ迎え入れた。
 エレオノーラは、それが先ほどの大鷲で、“エンキ”で、また彼女を包んだ光であったことを悟った。
 小さな太陽はクラウディースの掌の上で輝き続けている。
 クラウディースはそのまま、辺りを見回す。
 「少し闇が薄まったかな」
 エレオノーラも辺りを見回す。
 「よく、わかりませんが……」
 「まぁ、いい。そろそろここにいるのも飽きてきたしな。ここから出ようではないか」
 クラウディースは小さな太陽をエレオノーラの顔の前に持ってきた。暖かな光だ。
 「それにはエレオノーラの力を貸してもらおう」
 「……私、ですか?」
 「そうとも」
 クラウディースはにっこりして、空いているほうの手をエレオノーラの額に当てた。
 「目を瞑って、思い浮かべてごらん」
 エレオノーラが言われたとおりすると、クラウディースは小さな太陽を高く掲げた。光度が一段増す。
 「君の思い描く、強いいきものを――わたしに伝えておくれ」
 エレオノーラが意識を集中すると、クラウディースはまた音楽のような言葉を唱え始めた。
 すると、小さな太陽はひとりでに浮かび上がり、回りながらその光を強めていく。
 やがてクラウディースの紡ぐ音楽が極みに達すると、小さな太陽は一際強く発光した。
 その直後、まるでその光から飛び出すかのように動物が闇へと降り立ってきた。
 エレオノーラは額から手を放されて、目を開ける。
 そこには美しい青い鬣に、黄金の角を持つ白い大きな一角獣がいた。
 一角獣は楽しげにくるりくるりとクラウディースとエレオノーラの周りを回る。
 なんと見事な生き物だろう!
 がっしりとした足に、大きな蹄。円らな瞳に、賢そうな顔つき。豊かな尻尾はゆさゆさと揺れ、首を振れば青い鬣が誇らしげに動く。
 何よりも、まるで先ほどの小さな太陽から切り出したかのような黄金の角!
 螺旋を描きながら天へと真っ直ぐ伸びる角は、美しく同時に折れることはない。
 ――サライより優しそう。
 ふと一角を持つ馬ともとれるその聖獣と、連れの気の強い黒い馬を比べてしまいエレオノーラは少し笑ってしまった。一角獣はそんなエレオノーラに首を傾げて見せた。
 クラウディースはそんな一角獣の鼻面を優しく叩いた。
 「希望の獣よ、乙女を護る獣よ」
 クラウディースは歌うように一角獣に語りかける。
 一角獣はぴくりとそちらへ耳を向ける。
 「この闇から我らを出しておくれ。お前の偉大なその角で、この闇を破っておくれ」
 クラウディースが言い終わると、一角獣は頭を振りたて前の蹄で暗い地面を打ち鳴らし、美しく身をかえして駆けていった。
 そして一角獣はそのまま、美しい鬣と尾をなびかせて風に乗り空中へと駆け上がった。
 そして闇の中心で後足で立ち上がり、黄金の角を振りたてた。
 途端、辺りが眩い金となる。金は光の嚆矢となり、闇と言う闇に突き立った。
 びしり、と闇が音を立てる。
 闇にひびの走る音が響き渡る。
 天が落ちてくる――エレオノーラはそう思って、思わず目を瞑り頭をかばった。
 隣ではとどめとばかりに真言主が大音声で言葉を紡いだ。
 「悪辣なる闇は退け!」
 ばき、と何かが剥がれる音がした。
 「エレオノーラ!」
 真言主は怯える邪王の娘に言った。
 「何も恐れることはない。目を開き、耳を澄ませるのだ!」
 エレオノーラは、目を開いた。闇の亀裂の向こうに光と――日常が見える。
 ドン、と鈍い音がして幾千と言う亀裂から闇が剥がれ落ち始めた。闇は剥がれて地面に落ちきる前に消えていく。足元の闇は融けるように漂白されていく。
 やがて闇はすっかり消え去り――、現れたのはグチャグチャに散らかったクラウディースの書斎だった。
 窓の外からは、わずかに鳥のさえずりが聞こえてくる。庭は平和なのだろうか?
 ともかく、本棚が倒れ、本が散乱し、机がひっくり返ってはいるがそこは確かにクラウディースの書斎だった。
 「……やはりわたしの部屋の法則をいじっただけであったか」
 クラウディースが辺りを見回しながら嘆息した。その彼の目の前に、分厚い法典が落ちてきた。クラウディースは苦笑して、それが地面に叩きつけられる前に受け止めた。
 「おじさま!」
 エレオノーラも辺りを見回し、天井の一点に異常を見つけてクラウディースに警告した。
 クラウディースが目を向ける。
 そこには、黒い何かどろりとした物体が張り付いていた。
 その不気味な物体は、しずかにゆっくりと、粘着質独特の動きを見せながら大地の法則にしたがって落下した。
 どさり、とそれが音を立てたときには黒い物体は別なものへと変化を遂げていた。
 ――落下地点には、錬金術師が横たわっていたのだ。
 彼はうめいて仰向けになる。クラウディースはそれを見下ろしながら静かに言った。
 「――わたしの勝ちだな、錬金術師殿」
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