| 真言主が錬金術師の闇を破る少し前――ようやっと、エンキとマーカス、それにルキウスは真言主たるタイベリウス・クラウディースの書斎の前にたどり着こうとしていた。そこの角を曲がれば、この屋敷の主の書斎。
 先頭きって器用に角を曲がったのは、一番身の軽いルキウスだった。
 次にマーカスが続き……そして彼は突然全力で止まらなければならない事態になった。わずかに間を空けて続いたエンキは、マーカスよりも余裕を持って立ち止まることが出来た。
 マーカスが急停止を余儀なくされたのは、彼の半歩先で急に立ち止まった弟の背中との衝突を避けるためであった。
 「どうしました」
 エンキが問うと、ルキウスは顔をこわばらせて前方――つまり父の書斎のドアの方を指差した。
 するとそこには、まるで門番のように一体の人型の何かが立ちはだかっていた。それは石の色をしており――そして足元の床にはぽっかりと穴があいている。
 「……あれも床の石から造られた魔物か」
 マーカスは冷静にそう言うと、腰につるしたサーベルに手をやった。
 人型の魔物は――人型といっても円柱型の胴と腕と脚が別に作られ、その後組み立てられたかのような姿をしていた――手はまるで大槌のような形をしており、分厚い四角形の足を使ってがっちりと床の上に立っていた。だがその巨大な体躯とは異なり、胴と同じく円柱型をした頭部は申し訳程度に巨大な胴体に乗っかっているだけだった。
 それにしても、魔物の知性は申し訳程度の大きさの頭部に比例しているのか――あるいは知性が全くないのか、すぐ近くにいる三人の方に見向きもしない。
 三人は忍び足で、だが素早く、一度来た角を戻った。
 「今までの魔物と形が違うな」
 「ていうかアレ、刃物きくのか……?」
 今までの魔物も石床から生まれたとはいえ、動きやすくするためか体は刃物を通す程度には柔らかかった。しかし、書斎の前に立ちはだかっているのは、石そのもののようだった。
 ルキウスに言われずとも、その可能性に気づいていた年長の二人は顔を見合わせた。
 「倒せない場合は、誰かがアレをひきつけている間に残りの者が父の書斎に入るしかないでしょうね」
 マーカスが言うと、エンキが頷いた。
 「たぶん、俺たちの中ではルキウスさんが一番身軽です。――俺があれをひきつけますから、その間に」
 エンキが青竜偃月刀の具合を確かめながら言うと、マーカスがそれに反論した。
 「お客さまにそんなことをさせるわけには。母に叱られます。それにルキウスは多少ドジなところがあるので、いささか不安だな……」
 「緊急事態に何言い出すんだ!」
 兄の苦言にルキウスが全力で反論する。するとマーカスは少々意地の悪い笑みを浮かべた。
 「八割冗談だ。信じてるよ、弟よ」
 「二割そう思ってるってことじゃねーか!」
 エンキはその兄弟のやり取りに呆れかけたが、ふとそれがマーカス流の緊張を和らげるためのユーモアだと気づいて苦笑した。
 「じゃあ、そういうわけでいいですね」
 エンキが確認すると、二人は頷いた。
 「でも、何があるかわからないから臨機応変に」
 ルキウスが自信無げにそう言うと、マーカスは呆れた視線を投げた。
 それから一呼吸後、三人は再び書斎の前の廊下へと進んだ。
 五歩ほど進むと石組みの人型魔物が敵を認識する領域に足を踏み入れたのか、不意に魔物がちっぽけな頭部をひどくゆっくり回してこちらを向いた。
 「来る」
 エンキが言うのと、石組みの人型魔物が動いたのは同時だった。魔物は床にひびを入れそうな足音をさせてわずか二歩で間を詰めると、ハンマーのような拳のついた腕を完璧な円を描く動きで振り上げた。
 だが、動きは遅い。
 三人は余裕を持ってひょいとそれを避ける――振り下ろされた拳は、そのままの重さと慣性で床へとめり見込んだ。美しい床石がきらきらと飛び散る。
 ルキウスがその様子に狼狽した。
 「家が壊れる!」
 「そんな脆い家じゃない。……だが床が抜けたら父さんの書斎にいけなくなるな」
 マーカスはそう応じたが、ルキウスの言葉はどちらかと言えば家が壊れることよりもその修理費を頭の片隅で計算した末の悲鳴に近いものだった。
 そんな兄弟のやり取りを横目に、エンキは得物の刃を背中側に回し、姿勢を低くした。
 そして素早く、魔物のお粗末な頭部にあるであろう目の捉える範囲から抜け出す。そして勢いをつけて、背後から魔物の胴体を切りつける。金属と石のぶつかる音。
 ――刃がこぼれる。
 エンキが反射的にそう考えたとき、得物から手へと不気味な振動が伝わってきた。
 はじめは微細な振動だった。だがエンキはその振動が魔物の円柱型の胴体から発せられていることに気づき、一瞬だけ眉をひそめた。やがて震動がはっきりとわかるほどに大きくなる。
 エンキは思わず素早く飛び退った。
 直後、先ほどまでエンキの頭のあった場所を石造りの重い拳と腕がかすめていった。
 ――まるで石臼のように魔物の胴体が二つに分かれ、腕のついた上部が意外なほど速い速度で回転したのだ。
 遠心力をもった腕は、恐ろしい破壊力でエンキの頭部を破壊するところだった。
 「まじかよ!こんなんじゃ迂闊に近づけない!」
 ルキウスが魔物の変化を見て悲鳴に近い声を上げた。
 「引きつければ倒さなくてもいい」
 エンキは腕のついた胴体を回転させながら移動する魔物を避けながら言った。
 「引きつけると言っても命懸けだな。未来ある身としては煮込んだ野菜のようにつぶされるのはごめんだ」
 エンキの言葉に応えるでもなくマーカスは静かにそう言って、サーベルを正眼に構えた。
 その横で、多少引きつった表情をしたルキウスが兄より少し低めに同じくサーベルを構える。
 そこでぴたり、と魔物の胴体の回転が止まった。そして申し訳程度の頭部があたりに視線を巡らせる。
 魔物の右手にエンキ、左手にマーカスとルキウス。
 魔物は少ない知能で、数の多いほうを選んだ。恐らく、数で後ろから襲いかかられることだけが魔物の脅威だったのだろう。
 槌のような腕が振り上げられる。ルキウスは床を蹴り、マーカスは全身を使ってそれを避けた。
 兄弟の位置が隔てられる――そして魔物は三方から囲われる形になった。
 ――だが、どうしたものか。
 腰を落とさず、青竜偃月刀を低く構え身軽に飛び退れるようにしてからエンキは考えた。
 ――武器が三つとも刃物とは。
 魔物は石であった。鋭き刃も大地の申し子を切り刻むことは難しい。エンキはちらりとクラウディースの書斎のほうに目をやった。
 ――エレオノーラがいれば。
 エレオノーラがいれば、もしくはなにか魔法の力を帯びた武具があればこの事態はなんとかなったかもしれない。
 エンキはそう考えていた。
 火で焙り、その後冷水をかけ、石にひびを入れる――彼女の魔法にはそれほど破壊力はないが、それも幾度も喰らわせることができればまた違うのだ。
 だがここにエレオノーラはいない。
 ――なんとかするしかない。
 エンキは素早く視線を巡らせた。
 壮麗な廊下。頑丈そうな壁。無残に穴が空き、砕けた床――
 そしてエンキはふと気づいた。
 そしてそれを確かめるために彼は殺気を殺す。そしてそっと、魔物の目がマーカスとルキウスの間を行き来している間に、その死角に再び入り込んだ。
 しかしそこで再び襲いかかるような愚は犯さない。
 一瞬だけマーカスと視線があった。マーカスはエンキの意図がわかったのか、サーベルをあえて高く構えて魔物の気を引く。魔物の視線がクラウディースの長男に釘付けになった。
 だがマーカスは動かない――そのせいか、魔物もマーカスを睨むだけだ。
 エンキは慎重に、魔物の背へ近づく。そして、背後からわざと得物を魔物の視界へと押し出した。
 するとどうだろう、魔物は突然視界の外から現れた刃に驚いたように、またぐるりと、しかしやみくもに胴を回して槌たる腕を振るった。
 エンキはそれを予想しており、すでにその攻撃が及ぶ範囲から抜け出ていた。
 そして黙って魔物を見やる――すると今度は、魔物がちっぽけな頭部を――やはり石臼のように――回転させはじめた。ぐるりぐるりと回る頭部についている申し訳程度の目で、不意の攻撃をよこした敵を探しているのだ。
 そして頭部の回転が二度、三度と続き、四度目でようやっと敵たるエンキに視点を定めて止まった。
 だが魔物はすぐには動き出さない。エンキは魔物に体を向けたまま、後ずさり距離を保つ。
 そうしながら、残りの二人に声をかけた。
 「思いつきましたよ!こいつは目で判断してる。視界を判断の一番の要素にしてるんだ――さっきの腕を回す攻撃は刺激を受けたから闇雲にやったんだ。狙いは定めてない」
 その言葉にルキウスは眉根を寄せたが、マーカスにはわかったらしい。
 「そうか。目か。さっき角を曲がったばかりの場所で我々に反応しなかったのは、視界に入ってなかったからだな――」
 「……で、どういうこった?」
 ルキウスが兄にというでもなく、エンキにというでもなく聞いた。
 「時間を稼ぐには、あいつの目を引き付けておけばいい――もしくは目隠しか目潰しか」
 「頭部を破壊するというのも手だな」
 その二人の言葉に合点がいったらしいルキウスはひょいと眉をあげ――一瞬あとまた寄せた。
 「破壊するのは至難の業だと思うぜ。それに再生されたら面倒だ」
 「だがどのみち隙はできる」
 エンキはそう言うと、ちらりとクラウディースの書斎のドアを見た。
 ――エレオノーラを連れ出せば、完全に倒せるだろうか。
 あるいは、この家の主たるタイベリウス・クラウディースが。
 その可能性を考えて、ふと、エンキはそこで初めてこの魔物の正体が気になりだした。
 ――いきなり現れた魔物たちは、どこから来たのか?
 もちろん、彼らが見たように床の石から魔物は形成されたのだ。
 ではなぜ、床は魔物となったのか?
 床から立ち上がる魔物。似た光景を彼は見た気がした。
 ――まさか、錬金術師が?
 エンキがそこまで考えたところで、ルキウスが動いた。それはドアに向かうための動きではなかった。
 右手の人差指と親指で輪をつくり、それを軽くくわえる。
 ピュウ!とどこか耳障りな高く鋭い音が廊下に反響する。
 「ルキウス!」
 魔物に、「ほら、こっちだ!」と声を投げる弟にマーカスは鋭い声をかける。
 「耳もあるみたいだな!作戦変更だ。俺は兄貴たちより身が軽いから引きつけ役には徹せられる」
 魔物が一歩ルキウスの方へと歩みだす。ルキウスは魔物へと体を向けたまま、しっかりとした足取りで後退しはじめた。そして彼は二、三歩下がったところでエンキに向かって叫んだ。
 「親父はともかく、エレオノーラはあんたに来てもらった方が喜ぶよ!」
 その言葉に、年長の二人が苦笑した。そしてマーカスはやれやれと首を振ると、
 「ルキウスを手伝います」
 と言って魔物の後ろにつく。もし魔物が誘導に気づいて振り返っても対処できるようにだ。
 だが魔物は挟まれたことを気にしないのか、それとも気付かないのか、ゆっくりとだが重い足取りでルキウスを追っていく。
 エンキは魔物が十分離れた場所に行くと――ルキウスは先ほどの曲がり角に向かっていた――、用心しながら書斎のドアに近づいた。
 そして半身を魔物の方に向けたまま、ドアのノブに手を伸ばす。それは彼にとっては何気ない動作にすぎなかった。しかし、金のドアノブに彼の手の薄皮が触れたか触れないかのところで、状況が一変した。
 魔物が再び胴を回し、腕を垂直に上げたのだ。
 その直後、拳の先からエンキを狙って礫が飛び出してきた。
 礫の軌道上にいたマーカスとエンキはほぼ勘で飛び退っていた。直後まるで雹が地面に叩きつけられたかのような音がして、クラウディースの書斎のドアに大きな窪みがいくつも穿たれた。
 「――」
 エンキは思わずドアと魔物を見比べた。ドアは木製だが頑丈らしい。だがこれがエンキに当たっていれば、間違いなくあたりは血の海だ。
 めり込んだ礫が熱を持っていたのか、穿たれた窪みからはごく細い煙があがっているものもある。
 魔物を見れば、胴に遅れてようやっとといった感じでお粗末な頭部がゆっくりと回転し、やはりお粗末な二つの目がエンキを見つけたようだった。
 エンキははからずも魔物とにらみ合う形になってしまった。その魔物の向こうでルキウスが何やら叫んでいた。
 「冗談じゃないぜ!こんなに色々と形が変わるなんて……」
 魔物はふと頭部をまた動かした。エンキよりずっと近くにいるマーカスに気づいたのだ。
 魔物は無造作に重い腕を揃えて振り上げた。マーカスは器用にそこから転がって逃げ出す。
 槌のような拳がまた廊下にめり込んだ。
 クラウディース家の長男は素早く起き上がる。だが、彼は左膝を床につけたまま立ち上がりはしない。彼は何やらじっと魔物の下の方を見つめていた。
 「兄貴!何やってんだよ!」
 ルキウスが危険を知らせるかのような声を出した。
 「ちょっと考えてる。……ルキウス、エンキさん、これを引き付けておいてください」
 そう言われたエンキは何やら察したように書斎のドアから離れ、得物を大きく振って見せた。するとまるでマーカスに興味を失くしたかのように、魔物の視線がエンキに移る。
 エンキはとどめとばかりに、頭上で巨大な得物を回した。
 魔物が一歩エンキの方へと踏み出す。マーカスはそれにあわせて静かに、魔物の間合いから抜けていく。
 ルキウスはそんな兄と魔物を交互に眺めていた。するとどうだろう、マーカスは弟ににやりと笑って見せ、廊下を駆けて行った――そして、来た角を曲がって消える。
 「あ、兄貴逃げた?!」
 「違うでしょう、何か思いついたんですよ」
 素っ頓狂なルキウスの声に、エンキは魔物越しに答えた。その間にも、魔物は彼に迫ってくる。その様子に一瞬、魔物の拳を頑丈なドアに当てさせて破壊することを考えたエンキだったが、すぐに内側にいる二人に危険が及ぶ可能性に思い至り、むしろドアから魔物を遠ざけたほうがよさそうだと考え直した。
 魔物が近づいてくる。エンキも一歩進む。
 魔物が拳を振るう。エンキは青竜偃月刀を手に携えたまま器用にそれを避ける。
 避けながら、エンキは魔物の拳がこれまでのように石造りの廊下にめり込むところを無意識に想像した。
 だが、想像と現実は違った。
 魔物の拳は廊下にめり込む直前、まるで巨大なバネに跳ね返されたかのような動きで方向を変え、速度はそのままにエンキを襲ってきた。
 その予想外の動きに、エンキはなんとか間一髪飛び退った。それはもはや武人の勘としか説明できない反応だった。
 ルキウスはその一連の動きを魔物の向こうでぽかんと見つめていた。だがしばらくして、自分が戦闘の蚊帳の外にいることに気づくと、気配を殺しながら後ずさった。そして、考え込むかのような顔をする。それから、ふと何か思いついた顔をした後表情を改め、抜き身のサーベルをそっと置き、腰から鞘を外した。そして靴を脱いで、育ちが良いことを証明するかのようにきちんと並べて置いた。靴下も脱いでしまうと、次は袖をずり落ちないようにきっちりとまくりあげる。
 そんなルキウスの視線の先ではエンキが様々なやり方で魔物の拳から逃げ回っていた。
 そしてルキウスは魔物が完全にむこうを向いてしまう瞬間を待った。
 その数秒後、魔物がエンキを叩き潰すために拳を振り上げて動きを止めた一瞬に、彼は動いた。
 助走と弾みをつけて一気に魔物の背までつめ、床を蹴って魔物の肩に当たる部分に手をかける。その後勢いを殺さずに腕の力を使ってぐいっと魔物の肩の上に全身を持っていく。
 魔物は驚いて腕を彼に伸ばそうとした。だが円柱型の腕は不器用で、円柱型の胴の上に乗った敵のところまで関節が曲がらない。
 ルキウスはそれに気づくと、次の動作に取り掛かった。すなわち、魔物の円柱型の頭部にしがみついて、両手と腕でその視界を覆ってしまったのだ。
 魔物は仰天したように腕を無軌道に振り回し始めた。
 エンキはそれまで驚いたようにルキウスを見守っていたが、魔物の破壊的な動きにぎょっとしたように逃げる。拳の届く範囲から抜けて魔物を見てみれば、魔物はルキウスを振り落とそうと体をめちゃくちゃに動かし始めていた。だがそれは逆効果で、ルキウスはさらにがっちりと魔物のお粗末な円柱型の頭部にしがみついてしまった。
 「何してるんです!」
 エンキが語気を強くして問うと、ルキウスは揺られながら声を上げた。
 「こいつは視界に多く頼ってる!だったら目を塞いでしまうのが一番だろ?!」
 ――一理あるがやり方がむちゃくちゃすぎる。
 エンキがそう思った時だった。マーカスが戻ってきた。彼は左肩に巻いた長いロープをひっかけていた。だが、兄は現場に戻ってきて何よりも先に弟の今の状態に心底驚いたようだった。
 「何やってるんだお前!」
 「兄貴!」
 だがそれ以上ルキウスは兄に状況を説明することはできなかった。魔物がついに歩き回りながら体を振り、ルキウスを振り落とそうとしはじめたからだ。
 マーカスは一度だけ舌打ちした。だが弟の動きから魔物の視界を塞ごうとしているのを悟ったのか、彼にはそれ以上何も言わずエンキに声をかける。
 「一つ思いついたんです。ご協力をお願いします」
 そう言ってロープの片端を彼に投げた。エンキはそれを受取って、眺める。
 ちょっとやそっとでは切れそうにもない頑丈な、太いロープだった。
 「さっき気づいたんですが、あいつの足は意外に細い」
 マーカスは動きまわる魔物の下半身を指して言った。
 「それに比べて、上は重い。転ばしてしまえば、足が折れることはないかもしれませんが起き上がるのにかなり時間はかかるはずです」
 「成る程」
 エンキはそう言って再びロープを見た。
 つまり、二人でこれの両端を持って魔物の足を引っかけようという作戦なのだ。
 「幸い、ルキウスのおかげでこちらが上手くやれば容易に引っ掛かってくれそうですし」
 エンキはうなづく。ぐるぐると歩きまわる魔物はルキウスを振り落とそうと必死で、足元など気にも留めていない。
 あとはこちらがどう立ち回るかだ。
 年長の二人は気配を殺してロープをピンと張る。魔物はまだルキウスを振り落とそうとすのに夢中だ。エンキとマーカスは視線を交わす。主導権はマーカスだ。エンキは彼に合わせることを考える。
 再び魔物の方を見れば振り落とされそうになったルキウスが、いったん腕をばたつかせたものの持ち直しているところだった。よく見れば、彼は魔物の肩の上で移動している。それまでも僅かずつ移動していたのか、彼はあと少しで胴で魔物の視界を完全に覆ってしまえる位置に来ていた。
 「たまには気がきくじゃないか、弟よ」
 マーカスはそう言い、手の中のロープを握りなおした。そしてタイミングを図る――ルキウスの動きが止まり、魔物が片足を上げかける。――その先には、魔物が生じたときにできた穴があった。
 「今です!」
 その一言で、エンキとマーカスは低くロープを構えて走った。魔物の左足が完全に宙に踏み出されたところで、そのつま先にロープが引っ掛かった。
 「踏ん張れ!」
 思わずエンキが叫ぶ。引っかかったつま先は、マーカス側であった。
 マーカスはその言葉とほぼ同時に腰を落とし、脚を踏ん張った。魔物の石の重さがロープにかかり、彼はわずかに引きずられた。だが、火事場の馬鹿力と言わんばかりに彼はロープを抑える腕に力を込めた。つま先が正しい軌道から外れていく。
 その間に、地面の上に残されていた方の足が反射的に踏み出され、エンキに近いロープに引っ掛かった。エンキはそれを見てわずかにロープを上げ、人間でいえば脛のあたりにロープが来るようにする。こちらにも魔物の重みが加わった。
 ――腕が持っていかれる!
 エンキは反射的に上体を後ろへそらして踏ん張った。ゆっくりと、魔物の全身がバランスを欠きはじめた。軌道を外れた足が着地の態勢をとるが、そこにはなにもない。魔物はさらにバランスを欠いて前方に倒れる、倒れる――
 「ルキウス、飛べ!!」
 マーカスが未だ魔物の頭部に取り付いている弟へ声を投げた。
 その時、彼の握力が限界に達し、ロープがその手のひらをするりと抜けて行った。もう片方の端を抑えたエンキは、均等にロープを抑えていた力を失って、思わずよろめく。だが、わずかに倒れこみそうになっただけでなんとか踏みとどまる。
 その間にルキウスは魔物の肩を蹴って前方へと倒れこむ魔物の背側へと飛び立っていた。
 その蹴りがうまい具合に作用したのか、魔物はさらに前へとつんのめった。だが、その作用はルキウスには悪く作用したらしい。安定しない足場を蹴ったがために彼は思い描くような跳躍ができず、床へと胴から落下してしまった。
 直後、どぉんと魔物が倒れる音。
 エンキは姿勢を正し、魔物を見やる――魔物は前面から床へと倒れこんでいた。胴が穴にはまっている。そして床に罅が生じている。だが床の方が強かったらしく、魔物は一部砕けていた。
 ――動かない。
 魔物の動きは停止していた。エンキはそれを確認してから、その向こうに目をやった。
 何やらマーカスが床に倒れこんで呻いている。
 「マーカスさん!」
 エンキがあわてて駆け寄ると、マーカスは左肩を抑えていた。
 しかし、呻いてはいるが彼はしっかりしていた。
 「ロープを放してしまった拍子に左肩から落ちました。脱臼でもしたようです」
 見れば、彼は額に油汗をかいていた。エンキはあわてた。しかし、クラウディース家の長子は冷静だった。
 「応急処置の仕方は心得ています、それより」
 と、彼は荒い息の中で辺りを見回した。弟を探したのだ。
 見れば、倒れた魔物の足の先にルキウスはいた。何やらごろごろと転げまわっている。
 「痛ぇ〜〜〜〜……内臓が〜〜〜!!」
 それを見て、マーカスはがっくりと項垂れた。
 「あの様子だと打ち身程度でしょう。本当に内臓を損傷してたら死んでます」
 それより、とマーカスは言った。
 「父とエレオノーラを。こちらは自分でなんとかしますので」
 「わかった」
 エンキは頷くとくるりと向きなおり、クラウディースの書斎のドアへと近づいた。
 ドアノブに手をかけ、回しながらドアを押す。
 ドアは動かなかった。
 エンキは今度はドアを引っ張ってみた。
 ドアはやはり動かない。
 エンキは幾度かドアノブを回す――ドアは押せば開くはずだった。
 だが。
 ――開かない。
 鍵がかかっている様子はない。向こう側から抑えられているかのように開かないのだ。
 エンキはドアノブを回しながら、空いた手と胴を使ってドアを力いっぱい押した。
 ――開かない。
 「エレオノーラ!卿!!」
 エンキは中にいるであろう人たちに叫んだ。ドアを叩く。
 応えはない。
 しかし返事の代わりに、シューッという蛇が息を吐き出したかのような音がエンキの耳に届いた。
 エンキの背筋をぞっとしたものが走る――彼は先ほどより大きな声で呼びかけた。
 「エレオノーラ!!」
 
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