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「魔法使いと記憶のない騎士」
第五十六話
決着の犠牲
―穏やかな日々の終幕―

――エンキがドアをたたくしばらく前。
「――わたしの勝ちだな、錬金術師殿」
散らかった書斎の主である真言主は、倒れ伏す金の髪に銀の仮面をつけた男に静かに、だが冷徹にそう言い放った。
エレオノーラはそんなクラウディースの背に半ば隠れるようにして錬金術師の様子をうかがっていた。
しばらく肩で息をしていた錬金術師は、不意に倒れたまま嗤いだした。それは耳障りな哄笑だった。エレオノーラはその声に身を固くし、クラウディースは眉根を寄せて警戒の表情になった。
そんな二人の気配を感じたのか、錬金術師はピタリと嗤いをおさめた。響くべき余韻もなく、ただ無音となった空間は不吉そのもののようだった。
そして幽鬼のようにゆらりと金髪に銀の仮面の男は立ち上がった。体重を感じさせないその滑らかな動きにエレオノーラはさらに身を固くした。銀の仮面に覆われた顔がこちらを向き、仮面にぽっかりと空いた虚ろな穴が二人と対峙する。
「『自分の勝ち』だと、そう仰られるのですか、真言主」
「違うのかね?」
クラウディースはわざとおどけた様な声を出した。すると、錬金術師はくつくつ笑う。
「この時代の如何なる者にも私は倒せない
――誰にも私は殺せない」
笑いの向こうでそうつぶやいた声は低い。その言葉にクラウディースは口元に乗せていた形ばかりの笑みを仕舞い、表情を険しくした。少し腕をあげて、エレオノーラを背中にかばう。
そして錬金術師と真言主はまっすぐに対峙した。
錬金術は口元をゆがめ、クラウディースをうかがっている。クラウディースもまた、相手の出方を探っているかのようだった。
一瞬の緊張の後、先に動いたのは真言主たるクラウディースだった。
彼は彼にできる最高の速さで真言を紡ぐと、錬金術師に向けてその言葉を放った。
錬金術師はなにやら抵抗しようと思ったらしいが、圧力と風を孕んだ言葉は彼を易々と打ち倒し、床に屈伏させた。
だが真言主は倒れた侵入者を見ても手を緩めなかった。言葉を紡ぎ、言葉の鎖で錬金術師を縛りつつ、彼に歩み寄る。エレオノーラは動けなかった。
真言主はまるで言葉の鎖を確かめるがごとく、彼の周りを幾度か回る。
そして彼はしばらくすると、錬金術師の正面で歩みを止めた。
錬金術師が床に這いつくばったまま顔をあげる。
仮面の虚ろな穴と、真言主の気高い瞳がぶつかった。
そして、先に動いたのはまたもクラウディースだった。
彼はため息をついて、法衣を脱ぐとそれを手近な――立っている――椅子に放り投げた。それから、憐みのこもった瞳で倒れ伏すものを見下ろす。
その瞳は、すべてを見抜いた色をしていた。
「愚かなる生きモノよ、人に近しく、また遠きモノよ。
真理に逆らうのをやめよ。さすればそなたは解放されん」
その言葉に一瞬、錬金術師の露出した口元がゆるみ、従順な色をみせたかのように見えた。
クラウディースもそれを見とめたらしく、彼はふと深い色をした瞳をみせると、錬金術師の金の髪へと――まるで悪戯をした息子を許す父親のように――右手をのばした。
エレオノーラはその光景をぼんやりと見ていることしかできなかった。だが、ふと彼女の視界に異常が映った。錬金術師が酷薄に笑ったのを捉えてしまったのだ。
「おじさま、だめです!」
エレオノーラの警告と、錬金術師が動いたのはほぼ同時だった。
しかし錬金術師が何をどうしたのかは、エレオノーラにもクラウディースにもわからなかった。だが結果はなによりも鮮明だった。錬金術師が立ち上がり飛び退った一瞬後、クラウディースの差し出していた右手の甲から肩にかけて、鮮血が吹き出したのだ。
「おじさま!」
エレオノーラが悲鳴のように叫ぶのと、クラウディースが呻いて一歩後退するのも同時だった。だがクラウディースはそれ以上退かず、足を踏ん張ると出血した右肩を無事な左手で抑え、飛び退った錬金術師をぎっと睨みつけた。
錬金術師は楽しげに口元を歪めている。
「真理に逆らうモノを赦そうなどと、わたしが愚かだった!」
クラウディースは激しい怒りのこもった大音声をあげた。
「滅せよ!!」
その言葉とともに巨大で目に見えぬ力が錬金術師に襲いかかった。錬金術師は床にたたきつけられ、押さえつけられる。
見えぬ真理の手が、彼を押しつぶそうとしているのだ。
だが、錬金術師はまだ楽しげだった。
「……この時代の如何なる者にも私は倒せない。誰にも私は殺せない」
彼は再びその言葉を口にすると、突如として手をつき、膝をつき、立ち上がろうとし始めた。
「馬鹿な」
真理の圧力は常人が耐えきれるものではない。ほんの一瞬、わずかに触れただけでも人間は屈伏するのだ。その中で床に手をつき、膝をつくとは。
だが、錬金術師はクラウディースが驚いている間にすっかり立ち上がってしまった。圧力に屈して前かがみになっていた上体をまっすぐにする。そして彼は、まるで己のまとわりつく圧力を集めるかのように腕を広げ――露出した口元がにやりと笑った。
「お返ししますよ、真言主!」
錬金術はそう言うと、集めた「何か」をクラウディースに向かって無造作に放った。
とたん、真言主はわずかに動く間もなく反対側の壁に叩きつけられた。
「おじさま!」
後頭部を含む体の背面を強く打ったらしいクラウディースは、そのままぐったりと垂直な壁に従って落下した。そしてそのまま力なく横たわる。
「愚かなり真言主!
私に対して怒りを見せたのがお前の愚かさだ!
私を赦せないのはお前の弱さだ!
そして、その精神が滅び朽ちるしかない肉体に収まっていることも!」
ぐったりと動かないクラウディースの周囲に、ゆっくりと赤い染みが生じ始めていた。先ほどの衝突の衝撃で傷が広がったのだ――
エレオノーラはそれにハッと気づいてクラウディースに駆け寄ろうとした。
――傷を塞がなくては!
だが、その娘の髪がぐいと乱暴に後ろへと引っ張られた。
エレオノーラは思わずうめいて振り返る。そこにはいつの間に移動したのか、錬金術師が彼女の黒い髪を乱暴にひっつかんでいた。
「放しなさい!」
ひきつれるような痛みを堪えてエレオノーラが言うと、錬金術師は口元に怒りを露にしてぐいと顔を近づけてきた。だが、仮面の二つの穴は彼女に虚ろな闇をみせるだけだった。
「邪王の娘よ、オメガの予言の子よ。
これほどまでに愚かで弱い邪王の一族は見たことがない!」
万力のような力で髪をつかむ腕から逃れようと、エレオノーラはもがいた。
――早くしなければ!
クラウディースはぴくりとも動かない。エレオノーラは錬金術師の手首を掴み、爪を立てる。
錬金術師は不快そうに笑った。
「なんと弱い力。愚かで、弱い。それは穢れだ」
ぐい、と錬金術師が手を捻る。エレオノーラは短く悲鳴を上げた。
「なんと弱いことか。なんとくだらないことか。
こんな娘の血を継ぐ男が、銀の王を育てるだと?そのくだらない教育を受けた王が、私を倒すと。笑わせるな。
なんとくだらない予言か」
それから、彼は露出した口元をにっこりと吊上げた。そして彼はエレオノーラではない誰かに話しかける。
「邪王よ、この逃げ回るしか能がない、非力でみっともない小娘に一体何ができるというのだ。
このようなみっともない人間をこれ以降も排出しつづけるというのなら――」
彼はそこで言葉を切って、エレオノーラの髪をつかんでいる手を軽くひらめかせた。
なんということか、するとエレオノーラの体は易々と放り投げられた。そして彼女はなす術なく壁に激突した。後頭部をしたたか打ちつけたエレオノーラは悲鳴を上げることもなく気絶した。
ぐったりと細い体がクラウディースとは違う床へと倒れこむ。
錬金術師はその様子を見て手を叩いて笑った。
「なんとあっけない!邪王の一族に名を連ねる者とは思えないぞ!」
そして彼は軽やかに楽しげに、そして怒りを秘めながら倒れ伏す彼女に歩み寄った。
それから、彼女の傍らに立つと少しかがむ。無造作に、まるで雑草でも抜こうとするかのように、エレオノーラの波打つ黒髪に手を伸ばす。
そして、彼はそれだけを支えに彼女を起こした。
だらりとしたエレオノーラの上体が、不安定に、掴まれた髪だけを頼りに起き上がる――
「このようなみっともなく愚かしい人間を残すとは腹立たしい。そうだろう、邪王よ。
だから私が、ここでこの女の首とお前の血筋を引き千切って差し上げます!!」
髪を掴んだ手がぐいと動き、エレオノーラの頭が不安定にゆれた。



――まずい。
クラウディースは動きはしなかったが、気を失ってはいなかった。ピクリ、とやっとそこで動く。だが右腕はもう無いも同然だった。彼は左腕を頼りにして、体を動かす。
目の端に、気絶したエレオノーラとその髪を掴む錬金術師が映りこむ。
――アレはヒトではナイ。
真言主は“愚かな”邪王の娘がたどり着くことができなかった事実に感づいていた。
――滅さなければ。だが、わたしではできない。
左腕で這おうとする。体が重くてかなわない。
――エレオノーラが死んでしまう。
壮年の男の頭に、若くして死んだ友人夫婦の姿が蘇る。
――アレはわたしには滅せない、時が満ちていないから。だが、エレオノーラは死なせない。
錬金術師が気を失ったエレオノーラの顎に手をかけた。クラウディースは左腕に力を込める。しかし進まない――その時だった。
「エレオノーラ!卿!」
若い男の声と、ドアを叩き、ノブをガチャガチャと回す音が聞こえてきた。
クラウディースはそちらに目を向ける。
「エレオノーラ!!!」
クラウディースは自らの血の海でもがいた。
――あれはエンキ君だ。
だが、ノブの回る音とドアを叩く音だけが響くだけ。
彼が待ち望む若者は姿を現さなかった。
――なぜ入ってこない?
クラウディースは血を失って霞む視界でドアを探し――瞳がドアの一点に止まる。
そこは蝶番があるべき場所だった。
だがそこに、真言主はあってはならぬものを見つけた。
蛇がどうやったのか、蝶番に巻きついて動かぬようにしているのだ。
ドアの上部と下部にとぐろを巻いた蛇が一匹ずつ。不気味な模様をしたそれは、真言主の視線に気づいたのか、鎌首をもたげこちらを向き、シューッと彼を威嚇した。
「貴様らも不条理の落とし子か……」
――不条理の法則のもとに存在する錬金術師の魔物で、彼の一部でもある。だからこそ、「ドアに留めてある蝶番に巻きつく」などという不可能なことができるのだ。
真言主は動く左腕をそちらへと向けた。そして彼は、謡うように真理を紡ぐ。
二匹の蛇がもがいた。
とたん、エレオノーラだけに集中していた錬金術師がはっと顔をこちらに向けた。
クラウディースは蛇の頭を握りつぶすかのように、のばした左手の指先にぐっと力をこめ、顔だけは錬金術師に向けた。そして、彼は不敵ににっと笑う。
錬金術師は口元を歪めた。
「わたしを死に追いやってもそれは勝利ではないぞ!
肉体の死は真理にとってただの休息と転換期にすぎぬ!死は敗北などではないのだ!」
真言主がそう叫ぶと、蝶番に取り付いた二匹の蛇が爆発した。



突然ドアががくんと内側へと動いた。エンキは思わずつんのめりそうになったが堪える。
ドアがなぜ開いたのかは彼には分らなかった。しかし、ドアを抑える力は失われ、彼は部屋に踏み込むことができた。それだけで十分だ。
その彼の目に飛び込んできたのは、気絶したエレオノーラと、彼女の髪を掴み顎に手をかけている錬金術師だった。
「錬金術師!」
彼は叫んで携えていた青竜偃月刀の刃をぐいと後ろに引きつける。
だがそれをエンキが切りつけるために振るうよりも早く、錬金術師は彼に向って気絶した娘を投げて寄こした。
エンキは思わず得物を放り出して、エレオノーラを受け止めた。ぐったりとした細い体が力なく彼の腕に収まる――
「エレオノーラ!」
「感謝しますよ、草原の王!あやうく短気を起して、とおーい将来の楽しみを刈り取ってしまうところでした!」
錬金術師は飛び退り、ケタケタと笑いながらそう言った。
そして彼はエンキの後方に声を投げる。
「真言主よ、たしかにあなたは私に負けなかった!
しかしあなたとて死ぬのです!それをお忘れなく」
それに、弱弱しく声が答えた。
「死は敗北ではない――そちらも忘れるな」
その声を聞いたか聞かなかったか、ともかく弱弱しい声が空間に溶けると同時に錬金術師は身の回りに煙を生じさせた。
そして彼は不快げな笑みを露出した口元に見せると、煙とともにかき消えた。
残り香のような煙が消えるまでその空間を睨みつけていたエンキに声がかかる。
「人ならざる悪意の塊は逃げた――二度と戻るまい。それよりエンキ君、エレオノーラは……――」
クラウディースの声にはっとして、エンキはエレオノーラの呼吸を確かめた。意外に穏やかな息遣い。だがエンキはそれだけでは安心できず、そっとエレオノーラの胸へと耳を寄せた。
規則正しい鼓動をしばし聞いて、彼はほっと息をつく。
それからふと、エンキはクラウディースへと何気なく答えた。
「エレオノーラは無事のようです。卿はご無事ですか――」
エレオノーラを抱えたまま彼は振り返り、そのまま硬直した。
クラウディースの意識はもはや無かった。
自らが作った血溜まりに倒れ伏す壮年の男の顔色は紙よりも白く、四肢は糸の切れた操り人形よりも力なく投げ出されている。
エンキはエレオノーラを抱えたまま無意識に踏み出した。対処しなければ。
そこへちょうど、左肩をおさえたマーカスが部屋に入ってきた。彼はエレオノーラを抱くエンキに安堵の表情を見せ――エンキの視線を追い、硬直した。
「父さん!」
彼は左肩から右手を放すと、駆け寄ると同時に父の傍らに屈んだ。
膝が父の血に浸る。
「父上!父さん!!」
マーカスは父の体に手を掛けかけ――揺すらない方がいいと思ったらしく、やめる。
それから、声を張り上げる。
「ルキウス!ルキウス!!」
少しして、その言葉に応じた次男坊が部屋の戸口に現われた。
ルキウスは打ちつけた腹部を気にして前かがみになっていたが、血の気が全くない父を見つけるなりそれも忘れて立ち尽くす――親父、というぽつりした声だけが聞こえた。
そんな弟に、兄は命じた。
「何をぼさっとしている!医者を呼んで来い!
それから誰でもいいから人を寄こせ!」
ルキウスは兄の命令に弾かれたように駆けだした。
それからマーカスは「止血をしなければ」とつぶやいて手近な布をかき集めた。
エンキはエレオノーラを静かに横にすると、得物を拾い上げてカーテンを引き千切った。
それからマーカスを助けて、タイベリウス・クラウディースを起こす――マーカスの心がその重さに一瞬くじけそうになったことにエンキは気づかないふりをした。



しばらくしてマーカスは持ち直すと、エンキにエレオノーラを部屋に運ぶように言い、その後嫡男らしく、また誰よりも次期当主らしく動揺する使用人たちに的確に指示を与えた。

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