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「魔法使いと記憶のない騎士」
第五十七話
戦いの後に
―各々の闘いのはじまり―

ルキウスが馬を飛ばして呼びに行った医者は名医ではあるが、いかんせん歳をくっていた。
「急いでいる」
とルキウスが急かしてもやれアレがないコレがないなどともたもたとしているのである。苛立ったルキウスはとりあえず簡単な往診セットを医者に持たせると、彼を自らが乗ってきた馬の鞍へと押し上げた。そして、自身もその後ろに飛び乗る。
いきり立つ馬を御しながら、クラウディース家の次男は病院の入り口に慌てふためいて出てきた助手やら看護婦やらに言葉を投げた。
「必要なものはあんたたちが持ってきてくれ!」
それだけ言うと、ルキウスは助手や看護婦が頷くのも確認せずに馬の腹を蹴った。



タイベリウス・クラウディースの容態は医者が予想していたよりも悪いものだったらしい。
医者は止血のために消費された幾枚ものシーツや、蒼白なクラウディースの様子を見るとさきほどのもたもたとした様子をかなぐり捨てた。
医者は助手や看護婦が来るまではと、年配だがテキパキとした使用人を選び出し、それらの人々とクラウディースの妻ヴィプサーニアだけをクラウディースの寝室にだけ残し、後は追い出した。そしてドアを閉める直前、医者はマーカスに言った。
「ご長男、腕の見せ所ですぞ」
と。
パタンとドアが閉まった後、マーカスはあたりを――つまりは父の寝室前の廊下を――見渡した。一番手前に、ルキウス、アウレーリア、コルネーリア。それから、その後ろにほとんど全員が集まった使用人たち。
マーカスは弟妹に頷いてみせると、ついと視線を使用人の方へと向けた。経験豊富な執事と使用人頭は医者の手伝いをしているので、いない。
「そこの君」
マーカスが選び出し、指名したのは彼より幾分年上の、執事の補佐をよくしている男だった。
「お医者さまの助手の皆さんが来たら案内できるように待機していてくれ」
「はい」
男は短く的確に答えると、廊下を玄関に向かって小走りに歩み出した。
それから再びタイベリウス・クラウディースの嫡男はあたりを見回した。よく見れば、年若い女の使用人のなかには何人か、座り込んで啜り泣いている者がいる。彼女らにとっては、タイベリウス・クラウディースは優しく思いやりのある、まさに慈父のような主人だったのだ。もちろん、それは幾分年のいった使用人たちにも変わりはない。特に耳の肥えた従僕や洗濯女などは、他家の使用人たちがどんなひどい境遇にあるかをよくしっている。だからこそ、彼らは余計にタイベリウス=ギュスターヴ・クラウディースを敬愛している。その主人が今喪われるかもしれないという恐怖に彼らはおびえていた。
マーカスはため息をついて、「この信頼を受け継がなければならないのか」とふと思った。恐らく、今の使用人たちにとってはマーカスはよくいる「坊ちゃま」の一人で、信用するに足る「主人」ではない。先ほどの医者の言葉が指していることに思い至り、マーカスは改めて背筋を伸ばした。
それから、パンとひとつ手を鳴らした。
さっとよく躾けられた使用人たちの注目が集まる。
「皆、父の心配をしてくれてありがとう。今父は、無事医師の手に任せられた。
父に対して我々にできることは、おそらくもう無いだろう。
しかしながら、ここで手をこまねいてやきもきしていても、後で父に叱られるだけだ」
マーカスは一旦そこで言葉を切った。すすりあげていた若い使用人たちが、声をひそめる。
「――屋敷を片付けよう。
さぁ皆立ってくれ。
廊下はあちこち穴だらけだし、ドアは傷だらけだ。修繕は早い方がいい」
そこで長男は弟妹を見た。
「我々だけでは手に負えず、外部の職人の手を必要とする修繕はルキウスと私に報告すること。
カーテンや家具が壊れていたら、アウレーリアとコルネーリアに相談して、新しいものを配置しなさい」
弟と妹は驚いたように兄を見た。だが、マーカスは構わず続ける。
「ルキウス、お前は私の補佐だ。修繕費用の計算をしてくれ。
アウレーリア、コルネーリア、お前たちは母上に鍛えられて目が肥えている。それぞれの部屋に合う装飾を探し出しなさい」
「わたしたちに泣く暇を与えてくれないの?」
泣き顔でコルネーリアにしがみついていたアウレーリアが駄々をこねた。
マーカスはわざとおどけた声で答える。
「泣いてどうするんだ?お前の涙一粒で、父上の傷が塞がるとでも?」
アウレーリアは黙って双子の妹の胸に顔をうずめた。
マーカスはそれを見てアウレーリアが渋々ながら承諾したことを確認すると――弟妹については彼は深く信頼していた――再び使用人たちに向き直って、父を真似た張りのある、良く通る声を出した。
「さぁ、泣く事なら父がすっかり治った時にでもできる。今は我々の住処を、前よりも善くすることをしよう!」



しばらくして医者の助手や看護婦たちがやってきて、手練の使用人たちは解放され、若い嫡男を手助けし始めた。
だが、奥方だけが解放されない。子どもたちは、病抱える母が心配だったがあえて誰も話題にしなかった。
そして夕刻――
食堂にてルキウスと被害を計算しているマーカスのもとへ、執事がやってきた。
「アエミリア様がお見えです」
「知らせたのか――」
執事は何も言わないが、心優しい彼の婚約者に義父となる人が危険におちいっていると知らせたのはおそらく妹たちのうちどちらかだろう――そう悟ったマーカスは執事は責めず、また身振りで弟に出て行くように命じた。
ルキウスは書類を抱えて出て行った。入れ替わるように、アエミリアがやってきた。
「マーカスさん」
「アエミリア」
帽子を胸のまえに持って、彼女は足早にマーカスに歩み寄った。それから彼女は少し背伸びをして、婚約者の首に腕を回した。
マーカスはそれを抱きとめて、深くため息をついた。背中に添えられたアエミリアの手が励ますように動く。それから二人は静かに離れた。
「顔がお疲れです。大丈夫ですか」
アエミリアはそれでも、片手をマーカスの頬へと伸ばしながら言った。
「……自分では嫡男として鍛えられているつもりだったんだけどね」
マーカスはその手に自分の顔を押し付ける。それから苦笑して言い足す。
「つもりなだけで、全く鍛えられていなかった。――父は偉大だよ」
アエミリアはマーカスの瞳をじっと見て、そっと言った。
「お義父さまは、きっと大丈夫です」
マーカスはそこで一つ頷いて、彼女の片手に所在無げにしていた帽子を取り上げた。それを手近なテーブルの上に置いて、彼女に椅子をすすめる。
彼女が座ると、かれはその隣に腰掛け、肘をついて祈るように手を組んだ。組んだ手で、額をこする。
「母が付き添ったまま出てこない。母の体調も心配だ」
アエミリアはただ黙って、マーカスの組んだ手に自分の華奢な手を伸ばし、婚約者の強張ったように組まれた手を解いてやった。それから、彼の片手を優しく撫でる。
「途中の廊下で、使用人たちはちゃんと働いていました。あの采配なら、お義母さまも安心して付き添われているはずです。具合が悪くなっても、お医者様がいらっしゃいますし」
アエミリアはそこで、彼の手を軽くたたいた。少し湿った音がした。
それからしばらくの沈黙があり、アエミリアはマーカスの顔をしばらく見つめた後ふと気づいたように言った。
「マーカスさん、お食事はとられました?」
その言葉にマーカスははたと気づいたようだった。
「そういえば忘れていた。……ということは屋敷の者は誰も何も食べていないことになるな」
クラウディース家の使用人たちは、主人一家に敬意を払い彼らがナイフとフォークをあげるより先に自分たちの食事に手をつけることはない。マーカスはそれに思い至り、苦虫をかみつぶした顔になった。
――“主人”としての自覚が足りない。できていない。
それから、また別な事実に気づいてさらに彼は眉を寄せた。
「しかし料理人にもけが人がいたはずだ。全員分の食事を手配できるか……。非常食もちょうど入れ替えの時期で、十分にはなかったはずだ」
「私がお手伝いします」
アエミリアは辛酸を極めた様な顔をしている婚約者に静かに言った。マーカスは問うような顔で彼女を見る。
彼女はにっこりと、マーカスを安心させる笑顔を作った。
「家のものに、何か手早く食べられるものを作らせて届けさせます。そうすれば、忙しい使用人たちの手を煩わせることもないでしょう?」
マーカスはしばし、アエミリアの顔を吟味するように眺め――ひとつ、深くうなずいた。
「そうだな……、ありがとう、アエミリア。お願いするよ」
「では、善は急げですね」
そこでアエミリアはさっと立ち上がり、背筋を伸ばしてからテーブルの上の帽子を取り上げた。
そんな彼女を見上げてから、ふと、強い表情をした婚約者の顔に何か思いついたらしいマーカスがひどくゆっくり立ち上がる。
「君がもしよかったらだが――、食事の用意を頼んだら、すぐに戻ってきてもらえないだろうか」
アエミリアはそのマーカスの言葉に首をかしげる。マーカスは将来の妻にそっと提案した。
「妹たちには、家の装飾の手直しや家具の配置のし直しの指示出しを頼んでいるのだが――、やはり彼女たちも動揺している。それに、頑張ってはいるが手際がよくなくてね、少し荷がかち過ぎるらしい。
君はもちろん彼女たちより歳も経験も上だ。だからもしよかったら、妹たちのかわりに女使用人たちに采配を振るってほしいのだが」
そのマーカスの申し出に、アエミリアはしばし目を見開いていた。その目のずっと奥で、彼女の頭が高速で回転しているのをマーカスは感じ取る。少しの後、彼女は目を一度閉じた。再び瞼が上がった時、彼女の瞳は強い色をしていた。
「いいえ、だめです――」
マーカスはその返答に少々驚いた顔をした。
アエミリアはそのマーカスの表情に、少しだけ強い色を緩めた。
「今、お義父さまは確かに大変な状態ではからずもこの家の采配をあなたに任せることになってしまいましたが、ランドマール伯爵にしてクラウディース家の当主は今もタイベリウスさまに変わりはないのです。
あなたは“臨時”で“代理”の“嫡男”にすぎないんです。家督を譲られてはいません。
同じように、その伯爵の夫人でこの家の女主人は、ヴィプサーニアさまです。
妹さんたちは、伯爵のご令嬢なのでお義母さまの代わりに采配が振るえます。それが許されるのです。
ですがわたしは、いくらあなたの婚約者とは言え“他の家”の者なのです。嫁ですらまだないのです。
そのわたしが、持っていない“権力”を振るうことはできません」
マーカスはじっとその言葉に聞き入り、同時に咀嚼していた。
それからクラウディースの嫡男は、そっと両手を上げた。
「――確かに。使用人たちが君の悪口を言うようになるのはいい気分じゃないな。
わかった。ありがとう――」
アエミリアはにっこりと笑った。その笑顔に、マーカスは少しの残念さと誇らしさを感じた。
――たぶん遠からず、オレはこの人に限りなく感謝することになるな。
アエミリアはそっとまた背伸びをした。そして今度はマーカスの頬にひとつキスをした。
「大丈夫です。マーカスさんは立派に采配をふるっています。自信を持つことが大事です。
ルキウスさんにアウレーリアさんやコルネーリアさんを信じて。使用人の皆さんのことも。期待に応えなかった皆さんじゃないでしょう?
それから、お義父さまもきっと大丈夫です」
「――そうだな」
マーカスは苦笑した。それから彼は、勇気付けるようなキスのお返しに彼女の手を取り上げてそこに唇を落とした。それは敬愛のキスだった。
「ありがとう」
かくしてアエミリアは去り、しばらくして屋敷の裏口へ、口さがない使用人には見つかり難い方法で忠実な執事に謎の救援物資が届けられたのだった。
そしてそれは滞りなく、不審に思われることもなく、腹を空かせた老若男女の胃に収められたのだった。



一方、錬金術師に壁に叩きつけられ気絶させられたエレオノーラは、与えられた自室に運び込まれていた。
エンキは閉じられている瞼を指先で開いたり、再び脈を確認したりして当座は問題なさそうだと判断すると彼女をベッドに寝かせて肩まで布団をかけてやった。
あとは耐え忍ぶ時間だった。
途中、重傷を負ったクラウディースを診ている医者から寄こされた医者見習いが来て彼女を診察していったが、頭蓋の中を負傷したかは目覚めてみないとわからない、と言っただけで戻って行ってしまった。
またしばし、忍耐の時。
幸い、エンキにとって待つことはあまり苦ではないらしかった。瞑想するかのように、ベッドの脇に控えている。時折目を開けてエレオノーラの様子をじっと見ることがなければ、うたた寝でもしているのではないかと疑われるほどに彼は身動きしなかった。
またしばらくすると、コンコン、と控えめなノックの音がした。
エンキは音を立てずに立ち上がり、武人の技を生かして気配なくドアを開けた。
すると、不意に開いたドアにノックした人物は少なからず驚いたようだった。
「――エレオノーラは」
それはこの家の次男坊、ルキウスだった。エンキはドアノブを握ったまま言った。
「今はなんでもなさそうですが、詳しいことは目覚めてみないとわからないそうです」
それからエンキは肩越しに、ルキウスはエンキ越しにベッドに目をやった。
よく目を凝らせば、胸のあたりの掛け布団が規則正しく上下している。
エンキはベッドから目を引き離すと、静かに訊いた。
「卿のご容体は?」
ルキウスは一つ首を振った。
「わからない。だけど簡単に死ぬ親父じゃない」
「――俺もそう思います」
そのやり取りは、この二人の今までのやり取りの中では最も静かなものだった。
それからしばし、ルキウスはなにやらそわそわしていたが、一つため息をついて
「それじゃあ」
とだけ言って去ってしまった。
エンキはそれを見届けてから、そっとため息をつく。エレオノーラの枕もとで大声を出されたりするのが嫌だったので、彼は静かに、だが強固に彼の前に立ちはだかっていたのだ。ルキウスもさすがにそれを察したらしい。
エンキはまた静かに、ベッドの横に戻った。
それからまたしばらくして、エレオノーラの瞼が上がり、美しく珍しい紫の瞳があらわになった。
エンキはその気配に瞑想のような沈黙を解き、そっと彼女の視界に入りこんだ。
名を呼んだのは、女の方。
「……エンキ」
エンキはほっとしたように笑ってみせる。
「気分はどうだ、エレオノーラ」
エレオノーラは頭を動かしあたりを見ようとし、次に起き上がろうとした。
上体が重くふらつく。エンキはそれを支えてやった。まだ少し、ゆらゆらと頭が揺れている。
「エレオノーラ、これを見て」
エンキは彼女の眼の前に人差し指を立てた右手を差し出した。
「指を目で追って」
言うと、エレオノーラの紫の瞳は正確にエンキの太い指を追った。それから彼は手を握ったり開いたりして、その時の指の数を彼女に数えさせた。
それから、彼女自身にも握り拳を作ったり手を開いたりさせ、足の指に力を入れられるかまで調べた。
異常はなさそうだった。
「気分はどうだ?」
「水をちょうだい」
エンキが再び問うと、彼女は額を手で押さえてそう言った。
エンキは置いてあった水差しとコップを取り上げた。コップを渡すと、エレオノーラは一口だけ水を飲んだ。そしてコップを握りこみ、布団の上に手を置く。
「……おじさまは?」
それがエレオノーラの二言目だった。
「医者が来て、治療は続いてる。ほかはマーカスさんが取り仕切ってるみたいだな」
「そう」
エレオノーラはそこで、コップを持ったまま立ち上がろうとした。エンキはコップを取り上げ、彼女を優しく押し戻す。そして、彼女の目を見て静かに言った。
「今行っても、迷惑なだけだ」
エレオノーラは、クラウディースの所に行きたかったのだ。
エレオノーラは自分を押しとどめたその言葉にエンキを見つめた。それから彼女の体から力が抜け、エンキの胸に寄り掛かる形になった。
「私のせいだわ」
エンキは不器用に、抱き寄せるように彼女の波打つ髪を撫でてやった。
エレオノーラはもう一度、ぽつりと、私のせいだわ、と言った。

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