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「魔法使いと記憶のない騎士」
第五十八話
母の願い
―言葉の向こう側―

タイベリウス・クラウディースが一命をとりとめ、意識を取り戻したのは翌日の明け方近くだった。
顔は未だ蒼白で、黒い瞳に力はない。その瞳が、中空をさまよう。
「サーニャ」
妻の愛称を呼ぶその声は、朗々とした普段の声からは考えられないほどの、か細いものだった。
奥方はそっと彼の右手を握り、静かに答えた。
「ここにおりますよ、タイベリウス」
その声に、クラウディースは頭を重そうに動かした。それから、妻が自分の手を握っていたことに気づく。握り返す力は、本人にもわかるほど弱かった。
それから、クラウディースはあたりを見回した。
「子どもたちは、使用人たちに仕事をさせていますよ」
夫の問いたいことを察して、夫人は言った。その言葉に目だけで頷いて、次にクラウディースは医者を見つけた。
「……助けてくださったのか」
医者はただ、黙って国中から尊敬されている最高法務官を見ていた。
「……言いたいことがおありのようだ……」
その医者の様子から、何か察したらしいクラウディースは目をつぶった。ヴィプサーニアははっとして、夫の右手を握る手に力を込めた。いつもなら、その優しく大きな手は彼女の手を力強く、また頼もしく、握り返してくるはずだった。しかし今のその力は、あまりにも弱い。
「……わたしの右腕は、ダメになってしまったようだね」
クラウディースは言い当てるように静かに言った。医者は黙って、目を伏せた。
ヴィプサーニアは弱々しい力しか持てなくなった夫の右手を、さすっていた。



眠らせてほしい、というクラウディースだけを寝室に残して医者も妻も彼を一人にすることにした。
使用人がドアを開ける。ふと振り返れば、クラウディースはすでに眠っていた。
ヴィプサーニアはそれを網膜に焼きつけてから、子どもたちを呼ぶように、と使用人に申しつけた。
医者からクラウディースの状態について説明があるのだ。
子どもたちが集まると、医者は単刀直入に言った。
「タイベリウスさまの右腕ですが、もとのように動くことはもうないでしょう。
筋がズタズタに切れていて、私の腕では全ては繋げませんでした。私以外の者があたったとしても、今の技術では繋げなかったことでしょう」
その説明に子どもたちは、声を失ったようだった。コルネーリアはあたりを見回し、助けを求めるような視線で長兄を見た。ルキウスとアウレーリアはうまく事態を飲み込めていないらしい。
マーカスは一つ空気を嚥下させると、医者に訊いた。
「元のように動かない、とはどういうことです?父の利き手は右です。それが一切だめになったということですか?」
医者は手をあげて、声を上ずらせた嫡男を落ち着かせた。
「全てがだめになったというわけではありません。訓練次第では、六割から八割は回復するものと思われます」
「訓練次第?六割から八割?」
問うようなコルネーリアの声に、医者は静かに答えた。
「はい、回復後の訓練次第ということです。
腕の可動範囲ですが、おそらく非常に狭くなることでしょう。肘から先は、良くて直角から少しの位置まで、腕を上げるのも辛くなることと思われます。それから、指先もそれほど器用には、動かなくなると思われます」
下の三人の子どもたちは、その言葉にしばし呆然と目を泳がせた後、うつむいた。マーカスは唇を引き結んで、耐えていた。
しばしの沈黙ののち、ヴィプサーニアが声を出した。
「先生」
ヴィプサーニアは、自らの右手を撫でていた。そして言う。
「……夫は本当に字が上手で。よく私に手紙をくださいました。
まだ若くて、地方の裁判所に赴かなければならなかったとき、珍しい便せんや押し花を押した紙に、とても綺麗な字を書いて、送ってくれたんです。
それから、判決文を書いたり、書類にサインをしたり、子どもたちに字を教えたり。
剣や裁判の槌を持つのも、もちろん、右手です」
――それから、私や子どもたちのことをよく撫でてくれた手も。
と、ヴィプサーニアは心の中でつけ足す。
「それらがすべて、できなくなるのでしょうか?」
医者は、その言葉を真正面から受け止めた。
「やはり訓練次第、としか申し上げることができません、奥さま。
ランドマール伯爵の流麗な文字はわたしも拝見したことがありますが……おそらく、字の形は変わっておしまいになるでしょう」
ヴィプサーニアは医者の言葉を飲み込んで、しばし自分の右手を見つめた後、ぱっと顔をあげて彼に懇願した。
「わたしの右腕をあの人にあげてください」
その言葉に、マーカスがひゅっと息をのんだ。ルキウスは息をつめ、双子の娘は母を見つめる。医者はただ、黙ってヴィプサーニアを見ていた。
「わたしはこのとおり、病気の身でそれほど長くはありません。病は足から登ってきていますが、腕に至る前に心臓が動かなくなるとお聞きしました。だから、私から右腕をとっていただいて構いません。私はそれほど書きつけはいたしませんし、食事やお茶であれば、不格好にはなりますが左手があれば十分です。
でも、あの人の右手がなくなるのは耐えられません。
あの人は右腕でたくさんの仕事をしてきました。あの人の右腕が色々なものを支えて、ここまで連れてきてくれたのです。これまでの仕事は彼の誇りで、支えてきたものは彼の宝物です。あの人はこれからもそれを続けたいと思うはずです。それには完全な右腕が必要です。
綺麗な字や、仕事をしてきた誇らしい手が、失われるなんて、……。
ですから、」
医者はそこで手をあげて、ヴィプサーニアの言葉を制した。それから、医者はしばし言葉を探し――こう言った。
「お気持ちは察して余りあります。しかし、奥さまの腕は、伯爵にはいささか細すぎます」
その言葉は冷静で冷淡で、しかも場にそぐわない滑稽味を含んでいた。
だがそれこそが、それだけが、医者に実現不可能なことを懇願するヴィプサーニアを現実に引き戻す言葉だった。
医者はそれから、至極現実的な事実を彼女に示した。
「それに、我々の誰一人、大陸中の医者や魔法使いを合わせても、他人の腕を切り取って誰かにくっつけるという技術を持っておりません。たとえできたとして、それが伯爵にとって喜ばしい治療法とは、わたしには思えません」
ヴィプサーニアは胸の前で自分の右腕を抱きしめた。彼女の長男が、その細い肩に手をおいく。
「訓練すれば、最大八割は戻るのですね?」
長男は静かに言った。医者は頷く。
「訓練次第、ですが」
「だとしても、それは父にとって喜ばしい事実だと思います――あまり悲観するのが得意な人ではないので」
嫡男はしっかりと、手本たる父の背中を見ていたのだった。配偶者であり、父の最愛の人である母が見えなかった部分も、マーカスはちゃんと見ていた。そして弟妹たちには見えない一歩先をも、彼は見通していた。
医者はそんな嫡男の言葉にこくりと頷いて見せた。



説明を終えると、医者は助手や看護婦たちを引き連れ屋敷から帰って行った。
しかしヴィプサーニアと子どもたちは、使用人たちは下がらせて、説明を受けた部屋にとどまった。彼らには、父の腕に障害が残るという事実を受け入れるのに、もう少しこの部屋の空気が必要だった。
それから、少し。
部屋にノックの音が響いた。
誰かがどうぞ、というと、ひどく静かにドアが開いた。
そこにいたのは、エンキに抱えられるように支えられた、エレオノーラだった。
「ノーラ!」
ヴィプサーニアは声をあげて、自らの足代わりの車椅子の車輪に手をかけた。ルキウスがそれに気づいて母の車椅子に駆け寄る。
エレオノーラが部屋の中央に進むより早く、車椅子は彼女のもとにたどり着いた。
「ノーラ、ノーラ。どこも痛くはない?どこか変なところはない?
起き上がってももう、大丈夫なの?」
ヴィプサーニアは低い位置から手を伸ばす。すると、世にも珍しい紫の瞳をした娘は怯えたように身を小さくした。彼女を支える偉丈夫の存在が、まるで雛鳥を庇う親のように大きくなった。
「エレオノーラ、いったいどうしたの?」
マーカスが気を利かせて、エレオノーラのもとに椅子を持っていった。エンキはそこにエレオノーラを座らせて、自分は椅子の背もたれのすぐ後ろに立った。
心配したヴィプサーニアとその子どもたちが彼女に優しく注目する。
だがエレオノーラはうつむいて、誰の目も顔も見ずに、こう言った。
「私のせいです」
ヴィプサーニアは首をかしげ、子どもたちを見回し、それからエンキを見上げた。エンキはゆるとわずかにわかる程度に首を動かした後、エレオノーラを見下ろした。エンキの視線の先には、彼のものより少し明るい色のエレオノーラの黒髪があった。
「エレオノーラ、ちゃんと言ってちょうだい。よく聞こえなかったわ」
ヴィプサーニアは少しだけ声色に困惑を混ぜて、娘に言った。エレオノーラはやはり言う。
「おじさまの怪我は、私のせいです」
ヴィプサーニアはじっと、うつむくエレオノーラを見ていた。エレオノーラはうつむいたまま、だがしかし、良く聞こえる声で言った。
「あの――錬金術師は、私を追っているリュオンの摂政の手のものです。彼をこのお屋敷に引き込んだのは、私です。だから、私のせいなのです」
ヴィプサーニアは娘の声が切れると、彼女の背後に微動だにせず立っている男を見上げた。
男は奥方の視線に気づいたようだが、無表情に似た表情を崩さず、じっとしていた。
「アレはこれまで、どこまでも私を追ってきました。どこにいようが、わかるようなのです。
これまでも、土の中にも溶け込んだりして、どこにでも現れたんです。なのに、私は深く考えずもせずにここにお邪魔してしまった。少し考えれば、アレが私の居場所を嗅ぎあてることがわかりそうなのに、気楽に泊めていただいていました。
だから私がアレを引き込んだのです。だからおじさまは怪我をしました」
ヴィプサーニアは再びエレオノーラを見、また、エンキを見上げた。エンキは補足しなかった。だが彼がふと目を伏せたことから、伯爵夫人はそれが――錬金術師がどこにでも現れたということが――事実であるということを悟った。
「それに」
と、エレオノーラははじめてここで顔をあげた。その紫の瞳は、潤んではいたがどんな叱責も――そして怨みも――耐えてみせようという強い色をしていた。
「おじさまの怪我は、私の“青癒の指輪”が癒したかもしれません。
なのに、できませんでした」
ヴィプサーニアはそこで顎を引いた。すぐ後ろのルキウスが、母の気配を探っているのが感じられる。
ヴィプサーニアはしばし目を閉じそして――じっくりと血を分けた子どもたちの心配げな気配を感じ取ってから――その目を開いた。
「ノーラ、私やルキウスたちに、あなたを怨めというの?」
エレオノーラは返事をしなかった。だが、それは肯定によく似た沈黙だった。
双子の娘が、母の言葉に困惑したように何か声を上げるのが聞こえた。
だがヴィプサーニアはそれを穏やかに制し、言う。
「怪我はないのね、ノーラ」
突然変わった話題に、エレオノーラは困惑したようだった。ヴィプサーニアは続ける。
「どこもおかしくはないのね、ノーラ」
「……はい」
か細い返答に、ヴィプサーニアはほっと息をついた。
「だったらいいのよ、ノーラ」
「おばさま……!」
抗議の声を上げかけた娘を、ヴィプサーニアはやはり優しく、本当の母の様に制した。
「ねぇ、エレオノーラ。もしあなたを怨むのなら、私は世界中を怨んで呪わなければならないわ」
エレオノーラはヴィプサーニアの飛躍したような言葉に困惑したような、理解できないといった顔をした。ヴィプサーニアは穏やかな顔と声で、娘に言う。まるでそれは、やさしく諭すかのような言葉だった。
「だって、怨むということは、相手の存在全てが赦せないということですから。あなたを怨むということは、まず――というか次に――、あなたという赦せない存在を生み出したご両親をも怨むということになるわ。だって、ご両親がいなければあなたは生まれなかったでしょう?
それはつまり、あなたという存在を生み出した、あの優しいルーファウスご夫妻も怨まなければいけなくなるということ。
でもそのご両親にも、それぞれご両親がいるわ。そのご両親にも、そのまたご両親がいるわ。
あなたを怨むということは、そのずっとずっと先の原初のころから続く、あなたの存在を生み出したものすべてを赦さないということと同じなの。それはここに至るまでの、そして現在の世界すべてを怨むのと同じではない?」
エレオノーラは言葉なくヴィプサーニアを見つめている。ヴィプサーニアはまた、諭すように言葉を続ける。
「それにあなたを怨むのなら、同じようにわたしはわたし自身の運命を呪わないといけなくなるわ。
考えてみて。もしわたしが生まれなければ、こんな経験しなくてすんだでしょう?
同じようにタイベリウスと結婚しなければ、こんな体験しなくてすんだの。
でも現にわたしは今ここに存在して、今はともかくかなしいけれど、素晴らしい夫と素晴らしい子どもたちを得たわ。
あなたとエンキさんも同じ。あなたはわたしにとっては素晴らしくて大事で大切な存在なの。わたしの人生の一部なのよ。
……その素晴らしいわたしの人生の一部であるあなたを怨むということは、つきつめれば自分の運命も呪うということなのよ、ノーラ。
“あなたなんて、いなければよかった”、と“タイベリウスと結婚しなければよかった、わたしなんて生まれなければよかった”というのは、わたしの中では同じことなの。だってどちらもわたしの人生に関わることでしょう?
お願いだから、わたしにそんなおもい、させないでちょうだい。わたしはこれまでそんなおもいを抱いたことはないし、これからも、決してないわ。後悔もしないわ」
ヴィプサーニアはそこで、自らの膝の上で強張ったように握りしめられているエレオノーラの手をとった。そして勇気付けるように、その手を握りしめる。
「ノーラ、確かにいま、わたしはとてもかなしいわ。とてもとても、言い表せないくらい。
でもそれと、あなたを怨むということは全く別のことで、全く次元の違うのことなの。
そんな顔しないで、ノーラ」
ヴィプサーニアは優しく彼女の頬に触れた。深い慈悲と慈愛に耐えきれなくなったかのように、エレオノーラはまたうつむいた。
沈黙が場を満たす。
「……それに」
ふと、沈黙の中、マーカスが声を出した。それは優しい兄の声だった。
「親父の切れた筋は、どんな医者でも魔法使いでもつなげないほどにズタズタだったそうだ。
“青癒の指輪”がどれくらい偉大かはオレは知らないが、誰にもできないことを、その指輪ができたとは思えない」
長兄の正論に、言葉を知らない弟妹たちは頷いて見せた。
エンキはそれを見て、ふと優しく彼女の肩に手を置いた。エレオノーラはその手に背後を振り返り――それからクラウディース家の人々を見回して
「それでも……私のせいです」
とだけ言った。



それからしばらくエレオノーラの手を撫でていたヴィプサーニアだったが、娘の顔に疲労の色が濃くなったのを見てとると、エンキに言って、彼女を下がらせた。
エレオノーラは抱えられる様にして、後ろ髪ひかれるように部屋を出て行った。
それからまた、しばらく。
ヴィプサーニアは背筋を伸ばし、自らの子どもたちに向きなおった。
そこにはもう、最愛の人の不幸を嘆く女ではなく、いつもの、強くて優しい母たるヴィプサーニア=レイン・クラウディースがいた。
「マーカス、ルキウス、アウレーリア、コルネーリア」
ヴィプサーニアは一人一人、大切そうに子どもたちの名前を呼んだ。
子どもたちは背筋を伸ばして、母と向き合う。母は言った。
「あなたたちは、これからも、エレオノーラの友人でいてくれますか」
母の口から出たのは質問だった。その言葉にきょとんとして、子どもたちは顔を見合わせる。そして第三の子であるアウレーリアが言った。
「母さん、何言ってるの。母さんさっき自分で言ったじゃない。
今はとても悲しいけれど、それとエレオノーラを怨むのは違うことだって。
わたしたちも同じよ。
悪いのは錬金術師とか言うやつ。それに、父さんはエレオノーラを守ったのよ!
なのに、どうしてそんなこと聞くの?」
その言葉に、ヴィプサーニアは一人一人じっくりと子どもたちを見回した。それからほっとしたような溜息をついたあと、ふと表情を厳しくして言った。
「わたしやタイベリウス、あなたたちはそうでも、そうじゃない人たちもいます。
――勘のいい使用人の中には、彼女を恨む者もいるでしょう」
その言葉への子どもたちの反応はそれぞれだった。マーカスは覚悟していたかのように顎を引き、双子はそんなと声を上げた。中でもルキウスの反応が激しかった。
「そんな奴、辞めさせればいい!」
ヴィプサーニアはルキウスの甘さを痛感しながら静かに言った。
「そうすれば、エレオノーラは二重に恨まれることになりますよ」
母のその言葉に、次男坊ははっとしたようだった。
「でもそれも、あなた方に覚悟があれば和らいでいくことでしょう。
エレオノーラの頑なさも」
ヴィプサーニアは優しく言った。それから彼女は、表情を改めた。
「それから、母からあなたたちにお願いがあります」
その言葉に、子どもたちは首をかしげた。
ヴィプサーニアはこれまで誰も見たことがないほど美しい表情をして言った。
「……できるなら、誰も怨まない人生を送ってください。さっきエレオノーラにも言いましたが、誰かを怨むということは、この世界と自分をも呪うということです。
そんな人生、楽しくないわ。誰かを否定するということは、自分も否定することだとわたしは思うの。
誰かを嫌いと言う前に、誰かを怨恨んだりする前に、自分を慈しんで、誰かを愛して、もっと豊かな人生を送ってちょうだい。愛することも怨みも、同じだけ自分にかえってきます。
だったら、より豊かな人生を選んで頂戴。これが母からのお願いで――遺言です」

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