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「魔法使いと記憶のない騎士」
第五十九話
父たちの頼み
―亡父からの手紙―

ヴィプサーニアの前から辞し、エレオノーラを抱えて彼女の部屋に戻ったエンキは、彼女をベッドに横たえた。眠たくない、と抵抗する彼女を落ち着かせて毛布をきっちり肩口までかけてやる。するとエレオノーラはしばらくして眠ってしまった。
エンキはそれを見届けると、自分にあてがわれた部屋に戻った。
溜息をついてベッドに座り、それからカーテンが閉めてあるのに気づいた。だがカーテンはうっすらと光に透けていた。立ち上がって窓の近くにより、片腕でカーテンを持ち上げると、太陽はすでに中空高くに昇っていた。
――魔物が出たのは、昨日の午前だったか午後だったか。
エンキはうまく思い出せなかった。目まぐるしくことが起こりすぎて、あの太陽が一日前に同じ場所にあった時間と今とでは状況が全く変わってしまった。
それからふと、エンキは目をこすって自分がろくに睡眠をとっていないことに気づいた。
昨日、クラウディースの書斎で気絶したエレオノーラを見つけて以来、彼は彼女に付きっきりだったのだ。
そういえば、ヴィプサーニアもクラウディースに付きっきりだったはずである。マーカスとルキウスは被害の確認と使用人の采配にずっと追われていた。そしてクラウディースが明け方に目覚めてすぐに医者からの説明である。彼らは十分に休んだのだろうか?
下の双子、アウレーリアとコルネーリアはさすがに父が目覚めるまでは休んだはずである。
使用人たちの方も、主人一家とは違い人数がいて交代制をとっているから休んではいるだろう。
ふとエンキは、ヴィプサーニアと彼女の息子たちが心配になった。
だが、よそ者の彼が心配などをしてもどうしようもない。
エンキはため息をついてカーテンの下から腕を抜くと、ひどく重そうな足取りでベッドに戻り、ごろりと横になった。
そして彼は数刻、意識を失った。
彼が意識を現在に戻すきっかけになったのは、慇懃なノックの音だった。
エンキは目をこすりながら起き上り、床に足を下ろすとどうぞ、と言った。
ドアを開けたのは、この屋敷の執事だった。
「お休みのところ申し訳ありません」
「いえ、大丈夫です。それよりいま、何時ですか?」
「もうお昼はずいぶん過ぎてしまいました。皆さんそれぞれに休まれておいでで、お食事も各自それぞれでとられました。もしよろしければ、お部屋までご用意いたしますが……」
エンキは執事の言葉に遠慮がちに「お願いできますか」と言った。
執事は慇懃に礼をして「かしこまりました」と言った。それから身を起して、彼は言った。
「お食事がお済みになりましたら、旦那さまのところへいらしてください。
お話がしたいとのことです」
エンキはそれに少し驚いたが、ただ頷くだけにした。



そしてエンキは食事を終え、クラウディースの寝室へと向かう。
部屋に入ると、ベッドに横たわっていたクラウディースが目を開けた。控えていた使用人が気づいて彼の体を起してやる。背中の後ろにやわらかなクッションをいくつも置き、ベッドヘッドにもたれるようにして座ったクラウディースの顔は未だ蒼白だった。
だがエンキは、クラウディースの瞳には力強さこそ失われているものの、慈悲深い優しさと底知れない深い色はいまだ健在であることに気づいた。
「傷の具合はいかがですか」
「痛い。が、耐えられんほどではない」
クラウディースは短くそう答えた後、使用人に下がるように命じた。部屋には弱った壮年の男と、若々しい青年だけが残された。
「お話があると言われてきたんですが……」
エンキがまず切り出すと、クラウディースはベッドのそばにあった椅子を示した。エンキが腰かけると、クラウディースは彼にしっかりと目を当てて言った。
「なんだか決闘までしたのに大事なことを言い忘れていたことに気づいてね。
エンキ君、エレオノーラを頼むよ」
エンキはその言葉にきょとんとした。クラウディースは力ないながらに苦笑して、言い足す。
「忘れたかね、ほら、修練場で決闘したじゃないか。勝負がついた直後に子どもたちがわいわいとやってきてしまったので、一番大事なことを言うのを忘れていたんだよ。
――エレオノーラをよろしく頼むよ」
エンキは今度は困惑して、蒼白なクラウディースの顔を見た。だがクラウディースの目は真剣だ。
「ああ、心配しないでくれたまえ若者よ――なにもわたしが明日にも死にそうだからこんなことを言うんじゃない。
もともと言おうと思っていたことだ。
彼女の父から、父親役を任せられたからね――君は十分にエレオノーラの信用を勝ち得ているようだし、力もある。だからこそ頼むのだ」
その言葉にエンキはヴィプサーニアにも同じようなことを言われていたことを思い出した。
「奥さまにも、同じことを言われました。俺が出来るなら――出来る範囲で、出来ることはします」
クラウディースは深くひとつ頷いて見せた。
沈黙が少し流れ、ふと、エンキは思ったことを口にした。
「そういえば――卿も奥さまも、どうしてエレオノーラをそんなに大切にできるんです?
赤の他人ですよね?」
するとクラウディースはまっすぐにエンキを見た。
「それのどこがおかしいかね」
「いえ、なんとなく思っただけなんですが」
「安心したまえ、わたしは君の好敵手(ライバル)ではない」
クラウディースはいつものおどけた口調で言った。エンキがふとその口調にほっとしていると、クラウディースは言い足した。優しい声音で。
「そもそも人間が赤の他人を愛することができんというなら、男女間の恋愛や愛情による結婚も存在しないということにならんかね。それとは少し違うが――わたしと妻は、エレオノーラを自分の娘のように愛している」
クラウディースはそこでふと口を閉じた。それから、エンキの視線を感じて言い足す。
「もちろん、彼女がわたしの大切な友人の一人娘だということも起因しているだろうが――姪や甥というのと同じ感覚と言うのかな。“子どもたち”には幸せになってほしいんだよ。
子を持つ親としてね」
それからクラウディースは、ベッドの横にあるチェストの上を示した。
「エンキ君、君に見せたいものがそこにある。とりたまえ」
エンキは立ち上がり、チェストの上を見た。そこには一通の白い封筒があった。
エンキはそれを取り上げて、クラウディースを振り返る。
クラウディースは静かに言った。
「それがわたしが君に決闘を申し込んだ理由だ。開けたまえ」
封筒を開けると、そこには封筒と揃いの白い便せんが三つ折りになって入っていた。
エンキは遠慮がちにその白い便せんも開く――するとどうだろう、穏やかな風が一陣巻き起った。
その風を懐かしそうに浴びながら、クラウディースは言う。
「エレオノーラの父上からの最後の手紙だ。彼は娘より偉大な魔術師でね。
手紙に最後の思いを込めたのだ――」
風は便箋の上でふわりと一度踊ると、便箋の罫線の間から黒いインクの文字を巻き上げた。
エンキが驚いている間に、文字は形を変え、立ち上がり、集まっていく――最後に文字と不思議な風が作り上げたのは、一人の男の姿だった。
「彼がわが最愛の友にしてエレオノーラの父上、ルーファウスだ」
手紙の上に、魔術で一人の男の姿が投影されているのだ。
よく見れば、男は紫の瞳をしていた――その目の形はエレオノーラにそっくりだった。
だが頬は痩せこけ、持ちあげた手指は頼りなく細い。死の影がその身をむしばんでいた。
ルーファウスの最後の思いが、次に音となり声となった。
『親愛なるタイベリウス=ギュスターヴ・クラウディース。
いつもならここで季節のあいさつとしたいところだが――残念ながら私には時間も体力もない。省略させてもらうよ』
それは十年前に死んだ男の声だった。だが優しく、深い知恵を感じさせるような耳に心地いい声だった。
エンキは不思議な気持ちでそれを見ていた。
『リュオンの王位が五年ほど前から空いているのは、お前も知っているな。
だがあの国に、王位を継ぐ者がいないわけではないことも、お前はしっているはずだ。
王弟のトランキルスが実権を握るために、第一王位継承者の王女の戴冠式が執り行えないだけなのだ。
今は幼い王女だが、あの賢明な王の娘だ。成長し女王となれば、あの男は己から実権が奪われることがわかっているのだろう。だから戴冠式を行わず、女王を王女のままにしている。
戴冠されなければ、王として実権を思うままにふれないというこの国の伝統をあの卑怯な男は心得ているのだ――』
それは、隣国の今に続く状況を語る声だった。だが恨みはなく、声はひたすらに心配げで、愁いすら含んでいた。
『そしてあの男は、あわよくば王女の代わりに王になろうとしている。
だがこの国で王になるためには、前の王の遺言がいる。そしてあの賢明な王の遺言は、娘を示していた。弟ではなく、娘だった――だからトランキルスは摂政となり、戴冠式を延ばし延ばしにしている。これが今のリュオンの状況だ。あまりにも不安定で――不可思議な状態だ』
エンキは黙って、死した男の言葉を聞いていた。ルーファウスの最後の思いは言葉を続ける。
『そしてあの男は我々“邪王の一族”――つまりわたしに、戴冠させろと言ってきた。
どうもやつは、王に対する“邪王の一族”の義務と役割を勘違いして、“邪王の一族”は前王の遺言を覆せる力を持っていると思っているらしい――そして我らの“知識”を寄こせ、とも。
だが我らは、前の王の遺言を覆すことなどできないし、“真の王”にしか仕えぬ。そして、“真の王”とは前の王から正式に王位を譲渡されたものだけがなれるのだ。
そう――我々にできるのは、“真の王”を保護し、導き、教えることだけ。
だがあの男はそれを勘違いしているのだ』
十年前に死んだ男は、そこで疲れたようにため息をついた。
『リュオンにいま“王はいない”。だからわたしは王女に仕えることができない。お助けすることもできない。それが血に染みこむ“邪王の一族”の掟だからだ。
だがそのために摂政の小間使いになるなど言語道断。我らが仕えるは“真の王”のみ。
――これまでは、そのトランキルスの“命令”とやらもわたしの病身を理由に断ることができたが――』
もうすでにこの世にいない男は、ふと、遠くを見た。
『わたしが死んだら、エレオノーラはどうなるだろう?
わたしはろくに彼女に、身の守り方も、一族の歴史も、教えることができなかった。
次の“邪王の一族”は、わたしのせいであまりに無防備になってしまった』
エンキはその言葉に驚いて、思わずクラウディースの方を見た。
クラウディースは深い色をした表情で、若者に言った。
「彼は体が弱くてね――日々生きるだけで精いっぱいだったのだ」
『ここ数日――最低限のことは伝えた。あとは“儀式”を行って、彼女にすべてをわたし、わたしは死ぬだけだ。なんと愚かな父親だろう』
そこで、ゆるりと優しく首を横に振ったクラウディースの姿がエンキの目の端に映った。
『しかしエレオノーラに“邪王の知識”をうまく扱える力があれば――わたしはそう信じているが――あるいは、彼女はわたし以上にうまくやるかもしれない。
だが、そうだとしても時間はかかるだろうし、それにあの子にはまだ世を渡り歩く力はない。
そこで頼みがある。友よ、わたしの最後の頼みだ。
娘がひとり立ちできるまで、面倒をみてくれないか。おそらくあと数年のことだと思う。
地位も義務もある君に頼むのは心苦しい。ヴィプサーニアどのと君の子どもたちにも申し訳ない。だが君が一番信頼できるのだ。
だからせめてあの子が一人前になるまで、手元においてやってはくれないか――
これがわたしの、友たる君への最後の頼みだ』
十年前に死んだエレオノーラの父は、そこで言葉を切った。それから考え込むように顎に細くなった指を添える。
『……すこし長くなってしまったな。頭の動きが鈍くなってきてうまく結びの言葉が思いつかない。頼むだけたのんでこれで仕舞いとは申し訳ないが……できる範囲でいい。娘をたのむ。
タイベリウス、友よ、君とご家族の幸運を願っているよ』
エンキは黙ってそれを聞いていた。そして最後に、俯きかけたもういない人がふと顔をあげた。
そこには、病にはおかされているが失われない優しさと、悪戯ずきそうな人物の顔があった。
『ああ、そうだ。もう一つだけ頼む。
……娘のまだ見ぬ婿殿のことも、よろしく頼むよ――この意味は、好きに解釈してくれ。
それじゃあ、友よ。いつかどこかで――また』
最期の言葉とともに再び風が巻き上がり、浮かび上がった人物の像を無情にも消し去った。
だが蹴散らされた文字は便箋へと落ちていったがそこにはとどまらず、溶けるように白い紙の向こうに消えてしまった。
「手紙が……」
エンキが驚いて言うと、クラウディースは穏やかに言った。
「ルーファウスの魔術はそれで最後だ」
エンキはクラウディースに向きなおった。
「その“書いた人物を映す魔法”の発露はそれで最後だ。ルーファウスは最後の力を振り絞ってその魔法をかけたらしい。それにしては話が長いと思うがね」
クラウディースは懐かしむように苦笑していた。
「……最後の一回は、君のためにとっておいたのだよ、エンキ君」
エンキは複雑そうに手の中の手紙を見ていた。
「……エレオノーラに見せるべきではなかったでしょうか」
クラウディースは首を振る。
「これは男同士の手紙でね。“娘”に見せるべきものではないんだよ」
エンキは恭しく手紙を便箋に入れると、それをチェストの上に戻した。しばらく、それを感慨深げに眺めてからまた椅子に座る。
「……エレオノーラが追われている理由が少しわかりました。詳しくは話されていなかったので」
「そうか。では、“邪王の一族”についてもあまり知らんな?」
「はい」
エンキが明確に通る声で答えると、クラウディースはベッドの上で姿勢を直した。
エンキが手伝おうとすると、怪我をしていない方の腕をあげて大丈夫だと意思表示をした。
「……遠い昔の話になる。金獅子王アレクサンドロスがこの大陸を統一するずっと前のことだ。
そのころ、この世界は“神々と魔法にあふれる世界”だったという」
「……神々と魔法に?」
エンキは思わず訊ねた。神々はともかく、魔法とは一体何のことだろう。今でも世界には魔法があふれている。一晩中光の絶えることのないランプ、思いを込めただけで目的地を示してくれる方位磁針、その他にも人々に備わるという魔法と魔力を力の源とする魔法具がこの世界にはあふれているではないか。それにエレオノーラは魔法を使って旅をしてきた。
「今以上に、だよ。今の世界では、あまり神殿や神官団は権力を持っていないが――それ以前の世界では違った。村々は神殿を中心に形成され、神官や巫女たちは神と民の仲介者となり、人々は魔法具など頼らずとも自由に平等に魔法が使えた――それが、かつてのこの世界だ」
エンキはその話とエレオノーラに続く“邪王の一族”に何の関連があるのだろう、と思いながらもクラウディースの話を聞いてた。
「穏やかで牧歌的で、人々の繋がりの強い時代だったと聞く。神々は今ほど無視されておらず、そして人も彼らに近しかった――と。
だがその世界は突然、終わった。理由はわからない。神殿は燃え上がり、村々から人が逃げ出した。
その後今では“暗黒の時代”と呼ばれる、国もなく、またあってもすぐに消滅するような、民にとっては寄る辺もない時代が二百年ほど続き――やがて、金獅子王が登場する」
「“暗黒の時代”――?」
クラウディースが苦笑した。
「学者に言わせればね。なにも地獄のような世の中が続いたのではない。その間も人々は野を耕し、海と山から糧を得ていただろうからね――単に、その時代を知るべき術が一つもないから“暗黒”と呼ばれるだけなのさ。人々は神殿が燃え上がると同時に、記録をとるという行為も燃え上がらせてしまったらしい」
「はあ……」
クラウディースは困惑気味のエンキを見てとり、そこで歴史の講釈を垂れるのをやめた。
そして話を本題へと引き戻す。
「そう、暗黒の時代を入れて二千と二百年ほど前。神殿が燃え上がったのと同じ時に“邪王の一族”の始祖は生まれたという」
「二千二百年前?……金獅子王の腹心であった人物が?
……金獅子王が活躍したのは約二千年前ですよね?おかしくないですか?それだと、始祖とやらは二百年以上生きたことになりますが」
エンキはクラウディースに不信の目を向けた。だがクラウディースに彼をからかう様子はない。
「そう、おかしい。だがそういう話だ。もちろん、二千年も前のことだ。誤りや伝説の域に達している話もあるだろう。だが、その始祖とやらはまず二百年生き、そしてその後数十年金獅子王に仕えたのだ。しかもその間、外見上は全く歳をとらなかったらしい」
「……」
エンキが絶句している間も、クラウディースは怪我人でありながら饒舌に語った。
「そして彼は、金獅子王に加護と知恵を与え続けた。そして、自分ののちも、“真の王”たる者が己が一族に助けを求めればいつでもそれを与えると固く約束もした。
そして金獅子王が老いてその生を全うすると、どこへともなく消えたそうだ」
「どこへともなく……」
「西へ、という説が大半だがな。金獅子王の求めに応じて、大陸を去った“賢き獣たち”も西へ向かったと聞く。……ともかく、“邪王の一族”にはそんないわれがあって、“王を護る者たち”とよく呼ばれる。リュオン王国摂政トランキルスはそのいわれを曲解したか拡大解釈したかのどちらかだろう。“邪王の娘”たるエレオノーラを己を王位につけてくれるものと思いこみ、またその知識と呪具を利用しようと考えているのだ」
クラウディースはそこで大きくため息をついた。傷にこたえてきているらしい。
エンキが思わず腰を上げかけると、壮年の男はそれを制した。
「聞きなさい。話はまだ終わっていない。わたしは大丈夫だ」
エンキは居ずまいを正した。
「そう――トランキルスはエレオノーラを己の欲のために利用しようとしている。
兄である前王の和平路線を翻し、我がローランドと国境を争うようになったのもやつの指示。そして、十五年前、東ノ国を滅ぼしその軍門に下らせたのもあの摂政だ」
「東ノ国。」
それは人々が推測する、記憶を失ったエンキの故郷とされる場所の名前だった。しかし、エンキにはそこを滅ぼしたとされる人物のことを聞いても、彼の胸には何の感情も感慨も浮かんでは来なかった。
「そんな人物の手に、エレオノーラをやるわけにはいかないのだ」
クラウディースが力強く言った。その瞳とエンキの瞳がかち合う。するとどうだろう、エンキの体内にいつぞや感じた恐怖に似たざわつきが感じられた。
だが今度はエンキはあわてることはない――静かに何も考えず、未だ力失わぬ真言主と目を合わせ、逸らさない。
しばらくして、クラウディースが目を閉じた。それから、また開く。するとそこには真理を知る真言主ではなく、優しい父親の目があった。
「残念ながら、彼女の父が望んだのとは違って、エレオノーラに父を超えるほどの力はない。
……だから、君に頼みたいのだよ」
瞳に込めた真言の力に屈しなかったエンキに満足したのだろうか。クラウディースの声は深く、穏やかだった。
エンキはその言葉に素直に一言だけの返答をしかけて――踏みとどまった。
「……俺には彼女に助けてもらった恩がありますから――できることはしていきたいと思っています」
するとクラアディースはひとつ笑った。だが傷のことを考えたかすぐに口をつぐみ、今度は大げさに眉をよせて若者に言った。
「律儀な恩知らずめ。そこは『はい』の一言でいいのだ。
何にこだわっているのかは知らんが、エレオノーラは君のことが好きだよ。君が彼女を大事に思っていてくれているなら、何の問題もないじゃないか」
エンキはその言葉に首をゆると振った。
「俺には何の問題もないですが、律儀なのはエレオノーラです。俺の覚えてもいない家族と故郷に遠慮している」
「気づいていたのか」
クラウディースはわずか眉をあげた。それからしばらく押し黙り、ふと、若者に聞いた。
「……君は、故郷を知りたいとか家族のもとへ帰りたいと思ったことはないのかね」
エンキは断固とした意志を持って首を振った。
「覚えてもいないものを懐かしむことはできません。
ただ、ここへお邪魔して家族や友人というものの温かさをすこしだけ羨ましいと思いましたが」
「エレオノーラがいれば十分?」
後の言葉をクラウディースが言い足してみせる。エンキは苦笑した。
「……彼女は俺がただ傍にいることをゆるしてくれました」
「では、君が飽きるまででもいい、彼女の傍に居てやっておくれよ――女というのは大概我々よりは頑丈にできているがね、それでも人は一人では生きられない」
「……それなら、お約束します」
エンキがそう言うと、クラウディースが怪我をしていない腕を差し出してきた。
エンキはそれをしばし見下ろし――優しく握った。
「ありがとう。“娘”を頼むよ――」
エンキは言葉では答えなかった。しばらくしてクラウディースが力を緩めたので、エンキはその手を放した。温かな手だった。
「やれやれ、これで少し肩の荷が下りた気がするよ――と言っても、“親”というのは死ぬまで子どもたちの心配をするのが仕事だからね。ほんの少しだ」
クラウディースはそう言うと、ふーと息をついて背もたれにしているクッションに沈みこんだ。疲れたのだろうか。
「君に言いたかったこと、伝えたかったことはもう全部伝えたよ。
退出してくれて構わない。わたしは少し疲れてしまったよ」
クラウディースはそう言って目を閉じた。エンキはその傍らの椅子から立ち上がり、部屋を辞した。ドアから少し離れた所に立っていた使用人に、クラウディースは休むようだと伝えると、彼はさっと客人に頭を下げてから主人の部屋に入って行った。主人がすっかり眠りについてしまう前に、御用聞きでもするのだろう。
エンキはクラウディースの部屋のドアが閉まるのを肩越しに眺めてから、そここにまだ傷が残る廊下を歩いて行った。なんだか外堀から埋められたような気がするなぁと思いつつも、背筋をまっすぐにのばして。



それから数日後、ついにヴィプサーニアの病が進んだことを――自覚していた奥方本人以外の――屋敷中の人間が知ることとなった。

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